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2025/04/28
改憲派の狙いがにじみ出た「産経」記事
5月3日の憲法の日を前に当然憲法論議は高まる。今年は、昨年の総選挙で改憲派が発議に必要な「国会の3分の2」をかなり割り込んだという新たな情勢の下で迎える。筆者は4月18日の当サイトで、改憲派がその「糸口」として、憲法に「臨時国会召集期限」を書きこむことを「とにかく改憲」の第1歩として狙ってると紹介した。憲法53条は臨時国会について「いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」とあるが「何日以内」とは書いてない。(確かに抜けてるというえばその通りで、石破現首相も昨秋の自民総裁選候補者討論会で「例えば20日とか」と口にしたことはある)
4月24日の衆院憲法審査会を最も注目したメディアは改憲旗振り役の「産経」だろう。翌日の同紙は、審査会で立民議員がこう述べたと紹介した。「臨時国会の召集要求に関する問題だけであれば検討の余地がある」と。しかし産経は喜んではいない。同議員が、大災害時などの国会議員の「任期延長を含めた複数項目の同時改憲には応じない構えを示した」とあからさまに不満を表明した。
「臨時国会召集期限」などをきっかけに、一定の野党も引き入れて「複数項目の同時改憲」へ突き進むという改憲派の狙いがにじみ出た記事だ。
ついでに言えば、前サイトで紹介した「改憲国民投票」がありうるとする26年は(いわゆる政治一般常識として)「総選挙、参院選、統一地方選のない年」だ。改憲派はここまで彼らなりの構想を練っている。前号最後ののフレーズを再掲する。「改憲も『お試し改憲』も許さない」。この点にも留意して今年の憲法記念日を迎えたい。
(寺)
2025/04/18
「26年憲法国民 投票構想」に留意と警戒を
いま憲法をめぐる国会状況はどうなっているか。24年総選挙で自・公・維新が大幅後退で改憲勢力は発議ができる3分の2をかなり割り込んだ。しかし改憲勢力はショックを拭い去って、さまざまなやりくちで爪を研いでいる、といえようか。9条についていえば「自衛隊明記」はさすがに言えなくなっている。そこで自民党は、大災害などのときの緊急事態条項などを言い立て、改憲の糸口を探ろうとしている。4月16日の参院憲法審議会は、憲法54条にある衆院解散時に大災害、紛争などがあった場合の「参院緊急集会」を議論したが、ここでも自民党はこれに乗じて「改憲による緊急事態条項創設」を口にした。
ここで筆者は、政界の一部で「26年国民投票」が構想されているという論に注意を喚起しておきたい。『選択』4月号はいう。「立憲民主党が賛同できる案を26年の通常国会で発議し(略)国民投票を実施できるという具体的日程もひそかに描かれている」というのだ。では何を主題に? 自衛隊でも「緊急事態条項」でもない。憲法53条「臨時会召集」について何日以内と定めるというのだ。なんだか気が抜けたような話である。
同記事の言葉を借りれば、自民党は「憲法改正への抵抗感を小さくする」ことに気をくばり、「お試し改憲」も唱えたこともある。「改憲実現」のためには手段を択ばない党なのだ。「26年」を期する改憲勢力に対して、我々も思いを固めるときだ。改憲も「お試し改憲」も許さない、と。
(寺)
2025/04/14
シンガポール・チャンギー殉難者慰霊祭
東京都大田区の照栄院で
外国籍元BC級戦犯の救済を
日本の敗戦後、連合国がシンガポールで開いた軍事法廷で「BC級戦犯」の裁きを受け、死刑執行された軍人軍属らを追悼する「シンガポール・チャンギー殉難者慰霊祭」が4月13日、東京都大田区池上の本門寺近くの照栄院内であった=写真。「戦争犯罪人」として世を去った人々の中には日本の植民地支配下、動員された朝鮮半島出身者らが含まれている。東京裁判(極東軍事裁判)では戦犯は、A級(主要戦犯)、B級(通例の戦争犯罪)、C級(人道に対する罪)の3つに分類された。
A級では、権力を握っていた閣僚や軍幹部をはじめ、政治家、外交官、財界、言論人などが次々に逮捕された。容疑者の起訴、不起訴は、対米開戦の最終的な決定に関与したか否かが判断の基準になったといわれており、判決で死刑となったのは、東条英機ら7人。とはいえ開戦時の東条内閣で主要ポストにあった岸信介は不起訴になった。また、「政府と一体となって言論統制に応じた」と批判される新聞、通信社の社長や会長も、免責されている。
BC級戦犯はどうか。死刑判決は937人にのぼり、戦争を遂行した人物より重罰を受けるという矛盾に満ちた結果となった。そして、朝鮮半島や台湾の出身者らはさらに過酷な運命を背負わされた。
戦時中、朝鮮半島から3000人以上が軍属の立場で各地の捕虜収容所などに派遣され、戦犯に問われた朝鮮人は148人。うち23人の死刑が執行された。刑期を終えた人々も、戦後は外国人とみなされ、一切の補償、援護対象からはずされた。このため、在日韓国人の李鶴来(イハンネ)さんら有志が1955年、生活権の確保などを目的に「同進会」を結成した。李さんも当事者の一人で戦時中、タイで連合国の捕虜監視業務をさせられて死刑判決を受けたが、減刑となり56年に釈放。「刑死させられた友人たちの名誉回復を」との思いを抱きながら、獄中で運動を開始したのだ。
◇ ◇
同じころ、戦友の刑死に胸を痛めていた僧侶がいた。本門寺の元貫首で、照栄院の元住職、田中日淳さんだ。自身は陸軍に入隊し、シンガポールで敗戦を迎えた。残留部隊で引き揚げ船を待っていた時、キャンプの壁に張られていた若い兵士の辞世の歌を読み、自分たちの仲間が戦犯として処刑されていることを知った。
「自分だけ日本に戻ることはできない」と部隊から離れた。英国軍の管理下にあったチャンギー刑務所に向かい、1947年の元日から1年8カ月の間、教誨師を務めた。チャンギーで死刑となったBC級戦犯約130人のうち33人の最期に立ち会い、その中には6人の朝鮮人がいたという。田中さんは、彼らの手記や遺書をふろしきに包み、大切に持ち帰った。
極刑を免れた人々の呼びかけで照栄院の敷地内に83年4月、慰霊碑が建立された。慰霊碑にはチャンギー刑務所で処刑されるなどした157人の名が刻まれ、その中には約15人の朝鮮半島出身者がいた。長く同進会の活動を支援していた田中元住職は2010年、97歳でこの世を去った。同胞たちの「名誉回復」の一念で日本政府に謝罪と補償を訴えて裁判で闘い、外国籍のBC級戦犯者の救済立法を求め続けてきた李さんは21年、96歳で不帰の客となった。
◇ ◇
戦後80年の今年、慰霊祭には約40人が参列した。この日、法要を営んだのは、田中元住職の孫の石川龍彦住職。集まった人々が、慰霊碑に刻まれた刑死者の名を順番に読み上げた。
ちょうどこの日は、大阪・関西万博の開幕日。前回の70年の大阪万博のテーマは「人類の調和と進歩」。55年を経た今回は「いのち輝く未来社会のデザイン」を掲げるが、まったく心に響かない。なぜならいまも、世界ではどこかで戦争や紛争があり、命が失われているからだ。
過去と現在の戦争の実相を写真やパネルで伝え、平和な未来を希求する――。
日本政府こそ、こんなパビリオンを出展すべきではないか。それが開催国であり被爆国の役目だと思う。
(M・M)