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2022/06/12
槙村浩とその周辺(下)       ―高知から(13)―
<石塚直人(元読売新聞大阪本社記者)>
 私が高知支局で事件担当を離れ、教育や文化をテーマに取材した80年代、槙村と同じ頃にここで共産主義運動にかかわり、投獄された人たちの多くはまだ存命中だった。
 槙村が作った反戦ビラを兵営にまくなどした山崎小糸(同、元土佐バス車掌)らは、非合法下で当事者が記録を残さず、資料はすべて官憲に押収された中、互いの記憶を突き合わせて運動の全体像を再構築。68年に「戦前の旧共産主義青年同盟7名の確認事項」と概略年表をまとめた。
 「確認事項」によれば、高知の共産主義運動は29年、旧制高知高校(現高知大)の社会主義研究会結成に始まり、旧労農党などと協調・対立しながら組織化を進めた。31年夏には20人以上が党の関連事務所に出入りし、「大衆の友」など機関誌の読者は400人台に上ったという。
 山崎は槙村についても詳しく調べ、「高知県解放運動旧友会」名での「槙村浩全集」(84年)に結実した。75年には、県内外の有志による「槙村浩の会」が結成された。
 会の事務局を担当したのは、89年11月に自宅を改装して「平和資料館・草の家」を開設、初代館長となる西森茂夫(同)。第六小の後輩に当たる西森は槙村の名を知らなかったが、北海道大を出て札幌の高校に勤めるうち、彼の詩を読んで感銘を受け帰郷。67年に先輩も学んだ私立土佐中・高校の教諭となった(「高知から(8)」参照)。
 「槙村浩の会」は、槙村の元同志らが発刊した文芸誌「ダッタン海峡」を引き継ぎ、79年には槙村を含む県内12人が32~37年に書いた作品を発掘・集大成した「土佐プロレタリア詩集」を出した。
 作者のほとんどが無名で、筒井泉吉は警察の留置場で拷問により殺され、大陸や南方で戦死した人も多い。作品の大半はガリ版刷りの機関紙に掲載されただけだったが、レベルは高い。それは槙村だけが高知で屹立した存在だった訳ではないことの証、とも言える。

 「間島パルチザンの歌」は、早くから間島やその周辺に伝わっていたようだ。韓国在住の作家戸田郁子さんは、自身が韓国近代史を学んだ間島出身の延辺大学教授から「小学生だった35年頃、日本に留学したことのある先生がこれを朝鮮語で朗読した」と聞かされた。非合法下で、官憲に知られれば生命にかかわる。彼はその後、学校から姿を消した。
 中国文化大革命直前の64、5年には、延辺大学に設置された日本語科目の教材として使われている。
 新中国は大学の第一外国語を英語、第二外国語をロシア語としていたが、科学技術導入を狙いにこの年、フランス語やドイツ語、日本語などを教養科目として認めた。朝鮮族の多い延辺大学では、元朝鮮語学部教員で詩人の李成徽(リ・ソンフィ)が教材を作る際、「できれば日本人の書いた文章を」とあちこち調べ、図書館の隅にあったガリ版刷りの「間島」を見つけた。
 採用の決め手となったのは、日本人でありながら「大韓独立万歳」と歌った思想性の高さ、「高麗雉子が啼く咸鏡の村」ほか朝鮮人さながらのリアルな文学表現だった。
 戸田さんのインタビュー(2012年6月)によれば、李氏の父は4人兄弟の長男。すぐ下の弟は30年に日本軍との戦闘で死亡、末弟は32年、ストを主導したとして警官に撃たれて死んだ。それでもクリスチャンだった両親は「帝国主義は悪いが人民は別」と解放後しばらく、行き場のない日本人青年を自宅にかくまっていたという。
 李氏は66年に始まった文化大革命で、若い紅衛兵に「なぜ日本人の書いた詩を教えたのか」と殴られ、追放された。叔父が「革命烈士」だったことで命拾いできたらしい。
  
 私は70年代半ばの大阪外大(現大阪大外国語学部)朝鮮語学科生時代、初めて槙村の作品に触れた。当時は韓国で反共を掲げる朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の独裁が続き、学内でも韓国民主化闘争や、無実のスパイ容疑で死刑判決を受けた在日留学生への支援活動が始まっていた。
 ただ、記者としては後悔の方が多い。槙村を記念する集会には何度も足を運んだものの、80年代は東京の社論が急速に右傾化した時期(「反核運動はソ連の手先だ」と題する社説さえ出た)。大阪本社もそれに押され、「沖縄県民が何人も日本兵に殺された」の記事が勝手に書き換えられたことは「高知から(10)」でも触れた。
高知市・城西公園では毎年、槙村の誕生日に当たる6月1日に碑前祭が開かれている。今年も有志が「間島パルチザンの歌」を朗読するなどし、約20人が故人をしのんだ
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 集会で印象に残っているのは、海南学校時代の級友でともに軍事教練に反対し退学になった富永三雄氏(同)の訥々とした語り口だ。しかし私は紙面化が難しいと考え、詳しいインタビューを断念した。
 土佐氏とは、行きつけの居酒屋で何度も顔を合わせた。彼は免職後、処分撤回裁判に勝ち、県立図書館に勤めながら詩や文学評論を書いていたが、「人間の骨」についての質問ははぐらかされてばかり。どこまで事実でどれがフィクションか、は聞き出せずに終わった。

 それから30年余。かつての同志は全員が世を去り、新日本出版社から出た詩集も絶版になって久しい。「槙村浩の会」も日常活動はほぼ休止、槙村の作品と思想を広く発信する活動は西森氏ゆかりの「平和資料館・草の家」が事実上、引き継ぐ形になった。
 「草の家」の顕彰活動は多岐にわたる。95年には、現物が失われて84年刊の「槙村浩全集」にも掲載できずにいた「日本詩歌史」を、2003年には自筆原稿をもとに詳しい解説もつけた決定版としての「槙村浩詩集」を発行した。生誕百周年に当たる12年9月には、戸田さんを講師に6泊7日の「間島を訪ねる旅」を実施、関東・関西の有志を含む30人が参加した。
 間島は韓国の国民的詩人とされる尹東柱(ユン・ドンジュ)の故郷でもある。彼は同志社大文学部に留学中、治安維持法違反で逮捕・起訴され、27歳の若さで45年2月、福岡刑務所で獄死した。代表作とされる詩集「空と風と星と詩」などに政治的な主張は皆無ながら、朝鮮語辞典の編纂を手がける学者が多数検挙され2人が獄死した時代(「高知から(5)」参照)。朝鮮語で詩を書くこと自体が反日とみなされた可能性が高い。
 間島を訪れた一行は「日本人が来たのは初めて」と歓迎された。延辺大学では日中文化交流センター主催の交流会が開かれ、91歳の李氏の講演に続き、学生らが日朝中の3か国語で「間島パルチザンの歌」を朗読した。

「高知橋」電停沿いにある槙村「生誕地」の案内板
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 「草の家」は14年、12年ぶりとなる「ダッタン海峡」10号を発行し、槙村についての新たな証言、彼と同時代に侵略戦争に抗して闘った県内の若者たちの事績や「間島を訪ねる旅」の概要、戸田さんの寄稿を載せた。
 19年には1年余をかけて槙村の生誕地を特定、JR高知駅の南に当たる路面電車「高知橋」電停沿いの市有地に案内板を立てた。母の丑恵が少女時代、板垣退助の娘も通った高知英和女学院で英語や数学、漢学を学び、それが槙村の幼少からの猛烈な読書熱につながったらしいこと、槙村は第六小時代、級友から吉田「とよみち」ではなく「ほうどう」と呼ばれていたことなども、文献資料から掘り起こした。
 同年11月に発行した「草の家」30周年記念誌は、槙村が論文「人文主義宣言」で天皇制国家に代わる共和国の憲法草案(週5日7時間労働やアイヌの自治、16歳以上の男女の普通選挙権など)を提唱したことにも触れ、その先覚者ぶりを称えている。
 
 今、槙村の論文を読むと、当時彼らが深く信奉した共産主義運動の限界にも思い至らざるを得ない。彼が詩作を始めた31年、当時のソ連ではスターリンが党書記長として独裁を強め、後の大粛清につながるのだが、その実態は日本では知る由もなかった。
 ただ、槙村の真価はその神童ぶりではなく、転向者が相次ぐ中で非転向を貫いた精神の強靭さと、自分が楽をすることを決して許さない自制心だったろう。有力者の息子だからとプロレタリア作家同盟高知支部事務所の借り手にされた信清悠久(同)は、失職して日々の食事にも事欠く中、米屋をしていた夫人の実家から突然、米俵が届いた時のことを後に回想している(「ダッタン海峡」第6号)。
 それによると、同志らは皆貧しく、俵の米を貪り食った。節約を仄めかしても反発され、相手にされないので提供を続け、米はどんどん減っていく。ただ、槙村だけはいくら勧めてもその時になると姿を消し、皆が食べ終わる頃に戻ってきて仕事を再開していた。自宅に戻ってもろくな食べ物はないのに・・・。

 与党の自民、公明のほか、維新と国民民主までが軍拡路線をひた走り、野党第1党の立憲民主も反共路線に翻弄されて右往左往。憲法9条は風前の灯となった。日本が隣国を植民地化、あるいは侵略した先の大戦を事実に基づき「侵略戦争」と断言する政党がほぼ共産党だけになった今、まるで戦前の亡霊のように同党を排除してやまない政界や翼賛メディアの現状は、私にとって耐えがたいものに思える。
 私は共産党員ではないし、マルクス主義を奉じてもいない。戦後間もない頃の共産党が他国との関係も絡んで独善的だった歴史も知っている。ただ、その後は独立した立場でソ連・ロシアや中国、北朝鮮の政権党を批判し、自民党政権の転換を求めて国政選挙で他党の候補も支援するなど、民主主義に基づく柔軟な取り組みをしてきたのも事実だ。
 安倍元首相に代表される、国会でいくらウソをついても責任は取らない自民には同調しても「共産党とは一線を画す」と繰り返す人たちは、実際に生身の党員をどれほど知っているのだろう。彼らの大半は、自分も豊かではない中で他者の幸せのため身銭を切っている。そんな人たちがいたからこそ、世界史はここまで発展してきたのだ。特高警察時代の新聞が繰り返し報じた「不穏分子」のイメージ、大企業本位の企業別組合が成立する中で対立した共産党系組合員への敵視がそのまま残っているだけだとすれば、それこそ「国民の奉仕者」たるべき国会議員や官僚として失格ではないか。

 ロシアのウクライナ侵攻に絡み、声高に中国の膨張政策や北朝鮮のミサイル発射への対処を求める人たちは、決して自分が戦場に立つことはない。武器を持たされ敵兵と向かい合うのは、いつも経済的に最底辺の人たちだ。
 年収100万円そこそこの貧困労働者が炊き出しに列を作り、気候危機やジェンダー問題が可視化された今、財界と富裕層に奉仕する自民や維新、国民民主よりも共産の主張の方がずっと正しい。中国の膨張主義は確かに脅威とはいえ、食料自給率がわずか30%台の日本が中国と武力衝突すれば輸入も止まり、国民生活は破綻する。苦しくても外交努力しかないのは明らかだ。
 表向きは無難でも明治憲法に逆戻りしかねない自民党改憲案は、読めば読むほど恐ろしくなる。第2次安倍内閣以降、この党は本来担うべき「保守」を投げ捨て、狂信右翼「日本会議」の政治部になってしまった感がある。

 12日現在、私の体調はそれほど悪化しておらず、何とか原稿の書ける状態が続いている。自分より若い世代のため、とにかく「戦争」だけは食い止め、地球そのものを守らねばならない。でなければ死んでも死にきれない。それが今の正直な思いだ。
2022/05/12
がん闘病と「憲法・読売」再論(上)    ―高知から(12)―
<この記事は2部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・下)と並んでいます>

<石塚直人(元読売新聞大阪本社記者)>
 前回の「高知から(11)」は、私の不勉強から文末に長いコメントを追加することになり、闘病経過の記述が混乱した。2月以降の連載は大阪読売で40年働いた記者としての提案が主眼ながら、今回も冒頭にがん治療の概略を述べることをお許しいただきたい。

 4月1日に高知医療センターで腫瘍内科の主治医の診察を受け、従来の治療法では肝臓に転移したがんの悪化を防げないとして別の処方を提案されたこと、その日は結論を保留し4日に持ち越したことは、前回に触れた。この日彼から詳しい説明があり、私は翌5日から新しい処方に挑むことにした。
 2月4日以降の処方は、毎週1回通院して計3回、所定の抗がん剤と副作用抑制剤などの点滴を受け、1回休んで効果を調べた上で翌月からの処方を検討するもの。今度は3日連続で前回とは別の抗がん剤と副作用抑制剤を投与し、それを毎月繰り返すという。
 4月7日に第1クールが終わった後、第2クールは連休前の26日から28日まで。私のがん(神経内分泌がん)が極めて珍しく臨床例が少ないこと、最初の切除手術後に2度も緊急入院したことから、主治医はこの間、毎週1回の通院も指示した。普通は「異常があれば連絡して」となるところ、毎週の血液検査と経過報告で万全を期したのだ。

 そして5月12日現在、激しい下痢や吐き気など、抗がん剤治療に付きものの副作用は出ていない。ただ、頭髪はほとんど抜け、外出時には頭巾をかぶるのが通例になった。
 この1か月余で最も苦労させられたのは、大腸がん手術の影響で、やたらに便通が多いことだ。1日に10回以上は当たり前。とくに何かを口にするとすぐに催し、下手に我慢するとすぐ漏れてしまう。便座に腰かけて何も出ず、10分か20分先にまた、も珍しくない。
 もちろん遠出は難しく、通院にも使い捨ての紙パンツが欠かせない。これらがなかった昔、がんなどで寝たきりの高齢患者や家族の苦しみがどれほどだったか、考えるだけでぞっとする。
 4月半ば過ぎまでは、20日に及んだ入院のため、両足の衰えもひどかった。トイレでお尻を拭こうと中腰になるたび、ふらついて体勢が定まらない。生まれて初めてのことで、さすがに焦り、将来を案じた。
 連れ合いとふたりで主治医らと面談した4月4日、「太陽の下で身体を動かすことも大切で、家に閉じこもるのは良くない」と聞いたことから、治療が一段落した4月8日以降、毎日自宅から約1キロ先の書店まで往復するなど、鍛錬を兼ねた散歩を続けた。最初の数日は復路で息切れしたものの、少しずつ脚力が戻り、最後まで早めのペースで歩けるようになった。
 以前に比べ格段に疲れやすく、座卓に向かっていたはずが3時間も寝ていた、皮膚の代謝が激しいせいで体を動かすたび無数の皮膚片が舞い落ちる、といった不具合はいくつもある。でも、ここ数日は少し便通が安定してきており、吐き気や下痢が止まらない患者さんに比べればずっと楽。
 今月16日にCT検査をし、その結果によって今後の治療計画が決まる予定だ。

 憲法施行75年の節目に当たる3日、大手メディアはそれぞれ改憲の是非を問う世論調査の結果を報じた。
 最大部数を誇る読売は「憲法改正に賛成は60%、反対は34%」。昨年に比べ、その差は16ポイントから22ポイントに拡大した。護憲派の朝日は56%、37%で、昨年のほぼ同数がウソのよう。ともに、ロシアのウクライナ侵攻や中国、北朝鮮の動向から「日本を取り巻く安全保障環境に不安を感じる人が増えた」と分析している。
 昨秋の衆院選の結果、政権与党の自民・公明に維新、国民民主も加わり、衆院の改憲勢力は3分の2を軽く超えた。野党第1党・立憲民主の混迷もあって、衆参両院の憲法審査会は自民の思惑通り定例開催が定着、7月の参院選の結果によっては国会による改憲発議が目前に迫る。
 見逃せないのは、安倍元首相らが核保有も含め、従来の専守防衛を大きく逸脱する軍拡路線を唱え、岸田首相もそれを受け、戦時体制づくりとしか言いようのない方針をいくつも打ち出していることだ。GNP比1%枠だった防衛費を一挙に倍増させたいなど、正気の沙汰とは思えない。
 税金ほか収入が増えない中でそうすれば、しわ寄せはどこに行くのか。平成政治史を少し調べるだけで、民生費だとわかる。消費税導入は福祉のため、とあれだけ強調しながら、実際は大企業優遇税制の導入で相殺された。貧困に苦しむ庶民が急増しているのに、自公政権と彼らにすり寄る一部野党には、彼らを擁護する姿勢が見当たらない。

 政権のごり押しを加速させているのが、大手メディアによる連日のウクライナ報道だ。テレビはニュースの大半をこれで埋め、ロイター(英国)など欧米の通信社やウクライナから提供される映像が有権者の「ロシア憎し」を煽る。
 4月下旬以降は北海道・知床沖での観光船沈没事故が加わったが、こうした人目を引くニュースが大扱いされることで、岸田政権が掲げた「新しい資本主義」の中身を問う声は止まった。貧困や地球環境、ジェンダー問題などを考える素材も激減した。
現地の惨状はわずかなスタッフが肉声で伝え、今後の見通しは米国在住の特派員や元防衛省幹部が米国防総省やシンクタンクの分析をもとに解説する。同じ映像と解説が何度も繰り返される。
 もともと中立を目指していたウクライナに大量の武器を送り、NATО入りを焚きつけたのは米英両国だ。早くから「NATО入りは許さない」と警告してきたプーチンが面子をつぶされ、それが侵略を誘発した側面もある。しかし、そうした複雑な構造がきちんと説明されることはほとんどない。
 平和憲法を持つ日本は、それに基づき独自の外交交渉を行い、戦闘終結に貢献することもできるはず。しかし、現状は米国(と、それに追随する政府)が想定する世界像の枠内でしか、紙面や番組を組み立てていない。
 これでは低賃金と不規則勤務にさらされ、自ら情報を選ぶ余裕のない勤労世代に「騙されないで」と訴えても効果は望みにくい。台湾併合をうかがう中国、ミサイル実験を繰り返す北朝鮮がすぐ近くにある以上、世論調査の結果は目に見えている。

 本来、憲法は国家権力を縛ることで国民の権利を保障するもの。99条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と明記されている。自民党が改憲を党是にするのは自由だが、安倍氏のように首相が改憲の旗を振るなど、違法そのものだ。
 憲法を蹂躙して恥じない安倍氏が長く政権に居座り、退任後の今も党内を引っかき回すなど、民主主義と人権を求める世界の人たちにとっては「謎」でしかない。20年9月に後継となった菅氏も、「国民の奉仕者」の自覚のなさは前任者と瓜二つ。そして昨秋就任した党内ハト派・宏池会出身の岸田首相も、同じ轍を踏もうとしている。

 戦後75年のメディアと政治の歴史を顧みる時、読売新聞グループ本社の渡邊恒雄・現主筆(95)が主導した80年代以降の右傾化がどれほど罪深いものだったか、考え込まざるを得ない。その概略は「高知から10」でも触れた。新聞の読者離れが急増した今の話ではなく、まだメディアの王座にあるとみなされていた時代のことだ。
 各紙の社説が「どこも同じ」と揶揄されていた81年、東京本社論説委員長としてモスクワ五輪ボイコット、88年には副社長として竹下内閣の消費税導入に賛成した。91年に社長となり、朝刊のABC部数が1000万部を突破した94年には「読売憲法改正試案」を発表。その後も新条項を追加して改憲の世論づくりを牽引した。
 社内向け資料集「2015データブック読売」は、試案発表に始まる「提言報道」を「言論機関として新たな境地を開いた」と自賛している。試案を受けて2000年に国会憲法調査会(審査会の前身)が設けられたほか、いくつもの提言が政府の諮問会議の最終報告に盛り込まれた、という。
 この間、全国紙3紙では読売の部数の伸びが目立った。77年にトップに立った後、94年後半平均で1000万部の大台を超え、2位の朝日に187万部の差をつけた。毎日は95年、約30年続けた400万部を割り込んだ。
 しかし、政権べったりの「社論」は紙面全体に、そしてメディア全体に大きなゆがみをもたらした。とくに戦後最長に及んだ第2~4次安倍内閣時代(2012年末~20年9月)、安倍氏と読売の関係はほぼ一体と言えた。

 17年の憲法記念日に安倍氏のインタビュー全文を載せ、後日国会で改めて所信を問われた同氏が「読売新聞を熟読してほしい」と答えたのは、今も記憶に新しい。続く5月22日には、文部科学省の再就職斡旋問題で辞任した前川喜平・前次官が在職中、出会い系バーに通っていたとの中傷記事が大きく載った。その不当性を批判されると6月3日、東京社会部長の署名記事で反論した。
 前川氏の記事は、加計学園問題で彼が24日に記者会見し、「総理のご意向」などと書かれた内部文書が本物だと証言する直前に書かれた。彼は小泉政権時代に義務教育費の国庫負担金削減に反対、安倍政権下で不登校の子どもや夜間中学の支援を明記した教育機会確保法の制定を主導するなど、硬骨の公務員として知られていた。
 出会い系バーでも、そこで働く女性たちの話を聞き助言するなど、読売記事が示唆したいかがわしさとは別の振る舞いをしていたことが、他紙の報道で裏付けられた。中傷記事の情報源が官邸だったことは間違いあるまい。

 安倍氏は13年以降、大手メディア幹部との会食を頻繁に行ってきた。共産党の「しんぶん赤旗」(17年12月31日)によれば、回数は読売の38回をトップに日本テレビ21回、日経16回、産経14回、フジテレビ11回など。朝日や毎日の編集委員らも、時に上記各社のメンバーらと一緒に招かれたという。
 読売では渡邊主筆や論説主幹らが常連で、事情通の間に「これでは政権批判の記事は書けない」との見方が広がった。しかも、朝日や共同通信が世論の批判を紹介しつつ「首相の言動チェックは記者の役割、と出席を決めた」(朝日20年2月14日)などと報じているのに対し、読売の紙面で会食問題に触れたのを見たことがない。
 護憲であれ改憲であれ、社論を貫くのは当然だ。でも、自分にとって都合の悪いことは書かない、では言論人として無責任、もっと言えば卑怯な振る舞いではないか。

 安倍氏は国会で野党議員の質問にまともに答えず、勝手に持論を展開するなど不誠実な答弁を繰り返した。「桜を見る会」疑惑を巡っては1年で118回も事実と異なる答弁をし、野党の指摘で謝罪に追い込まれた後も辞任は拒否した。普通なら、とても信用ならない人間として誰からも相手にされない。その彼を持ち上げてやまない「社論」とは何なのか。
 毎日「社説を読み解く」(18年6月6日)は、同年5月29日の読売社説が国会での加計学園疑惑追及に「繰り返しの論議に辟易する」と嫌悪感を示したことを挙げ、その愚劣ぶりを批判した。私の地元・高知新聞など地方紙も含め、多くの新聞が追及の論陣を張っているのは、政権による偽証や公文書改ざんを正すのが民主主義の基本だからだ。その努力を貶める新聞社など、この国には要らない。
2022/05/12
がん闘病と「憲法・読売」再論(下)    ―高知から(12)―
<石塚直人(元読売新聞大阪本社記者)>
 同じ傾向は菅政権下でも続いた。人文・社会科学系の6人が任命を拒否された日本学術会議について、読売の報道は政府の発表や自民党幹部の発言が大半を占め、それを批判する側についても取材対象は国会内だけ。他紙が広範な識者に取材して「軍事研究に否定的な同会議を換骨奪胎する強権措置」の本質を浮き彫りにしたのとは対照的だった。理科系の93学会が出した、事態を憂慮する声明も無視した。
 何より不可解なのは、突然任命を拒否された6人の学者の本人コメントが全くないことだ。これでは、まともな新聞記者の取材とは言えない。私は昨年夏、拒否されたひとり加藤陽子・東大教授(日本近代史)の「それでも、日本は『戦争』を選んだ」を読み、透徹した知性とわかりやすい文章に感銘を受けた。その見事さは半世紀も前、先輩に勧められて読んだ林達夫「共産主義的人間」にも比肩すると思われた。
 神奈川県の私立中・高校生有志向けに行った5日間の講義をもとにしたこの本は、生徒たちの疑問や感想を引き出しながら最新の研究成果を縦横に紹介。理系も含めた若い世代にこそ近現代史に親しみ、この国の未来を考えてほしいとの熱意がみなぎる。「おわりに」では、自分にとって都合のいい事実だけを並べた極右論者の歴史読本が書店に溢れる現状をやんわり批判。歴史を深く思索する人の顔は「きっと内気で控えめで穏やかなものであるはず」と締めくくっている。
 菅前首相も、「その話はすでに解決済み」と言ってのけた岸田首相も、時間が経ちさえすれば皆が忘れる、と高をくくっているのだろう。なめてもらっては困る。

 「高知から10」で、私は読売新聞大阪本社と大阪府の包括連携協定に触れ、「記者が萎縮することはない」との柴田岳社長のコメントに反論した。
 「どういう報道をするかは私以下、編集権を持っている上司の者たち、或いは一人一人の記者が・・・そんなに簡単に忖度していうこと聞く記者ばかりじゃありませんから」の後段が正しいことを、私は心から望む。実際にそれをうかがわせる記事もある。でも残念ながら、それは社論とあまり関係のない分野が多い。問題は「編集権を持っている上司」だ。
 大阪本社で東京との窓口役となる部署にいた2004年4月、戦時のイラクで人道支援をしていた日本人3人が武装集団の人質になり、東京は彼らが政府の足手まといになった、と非難する紙面を作った。私はげんなりしたが、社論なら仕方がない。ただ、一面と社会面と中面に3人の「彼らは反省すべきだ」という署名記事を並べたのは異例も異例、新聞づくりの常道を外れている。
「これではまるでアジビラ。大阪ではせめて1つ減らし、別の記事を入れては」と整理部のデスクに申し入れた。返ってきたのは「それは無理や」。東京があえて3本を載せ、こちらに送信してきた以上、どれかを落とすと理由を尋ねられる。「そこで突っ張れる人などここにはいない。あなたも知ってるでしょ」。

 連休中のある日、昔の切り抜き記事の中から、柴田社長が東京の論説委員長時代に書いた特集(19年11月)を見つけた。読売社説は論説委員の「個説」ではなく組織として練り上げたもの、の記述から思い出したのは、翌20年元日の社説「平和と繁栄をどう引き継ぐか」。ふだんの3倍以上に及ぶ長文の、最初の小見出し後の約30行は今も覚えている。
 いわく「日本はまれにみる平和と繁栄を享受している」「安倍首相の長期政権下で政治は安定し」「困窮している人もいるが、『危機』ばかりが叫ばれれば社会は活力を失う」。後段には同意できる記述も多いものの、ここは「政府に文句を言うな」としか読めない。その後のコロナ禍で「アベノマスク」など醜態をさらけ出した首相を、この筆者はどう書いたのだろう。

 NHKや民放キー局などテレビ報道の曲がり角は、2001年1月にNHKが放送した「問われる戦時性暴力」が当初の内容と異なっている、と女性団体が提訴した事件だ。4年後には朝日が「安倍官房副長官=当時=らがNHK上層部に圧力をかけた」と報じ、番組制作担当者が同様の内部告発をした。
 裁判は08年、最高裁が原告逆転敗訴の判決を出して確定。一方、NHKは朝日の記事を全面否定し、朝日がこれに反論するなど、しばらくは泥沼の様相を呈した。
 14年1月には、NHKの籾井勝人会長が就任会見で「政府が右と言うものを我々が左と言う訳にはいかない」と発言した。衆院選を控えた同11月には、TBSがアベノミクスに否定的な街の声を紹介したのを自民党が問題視し、在京のテレビ各社に「公平中立」を求める要望書を出した。言葉尻こそ丁寧ながら、政権党が自分に不利な言論を抑え込む構造は、ロシアや中国などと全く変わらない。

 NHKや読売の「翼賛報道」はともかく、朝日や毎日など政権に批判的とみられる新聞の憲法記念日特集にも、私は割り切れないものを感じている。安倍氏らの暴論に影響された多数派「世論」に対し、どことなく弱腰なのだ。
 「週刊金曜日」(4月29日・5月6日合併号)の特集は、さすがに政府や企業の広告なしで30年近く定期購読の読者が支えてきた雑誌、と思わせた。かつて反戦自衛官として知られた小西誠氏、勝訴を勝ち取ったばかりの「北海道警ヤジ排除訴訟」原告らに縦横に語らせ、説得力がある。
 歯に衣着せぬ政権批判で知られる夕刊紙「日刊ゲンダイ」(6日号)が、ウクライナ情勢を論じた見開き特集も面白かった。中でも、米国の軍事産業が欧州各国の対ウクライナ武器支援で軒並み活況を呈している、との指摘は鋭い。

 良かれ悪しかれ、今の社会は過去の歴史の、つまり人間の闘いと妥協の産物である。誰もが心の中で平和を望みながら各地で戦火が絶えないのは、別に神様がそう決めたからではない。巨大武器メーカーが莫大な献金を通じて政府を動かし、他国への敵愾心を煽ることで多くの民衆を死に追いやったのも、世界史の紛れもない一面なのだ。
 とくに米国では、軍需産業が政権や金融資本と結びつき、巨大な軍産複合体となって国を動かしている。イラク戦争時のチェイニー副大統領が、就任前は湾岸戦争などで大儲けしたハリバートン社の最高経営責任者だったなどが好例で、彼らは平和だと商売が成り立たない。その構造は、高知の元マグロ漁船員らのビキニ被災を論じた「高知から7」でも紹介した。
 米国の要求通り日本の軍事化を進めたい読売はともかく、朝日や毎日の紙面でこうした現実がほとんど報じられないのはなぜか。記者の異動が激しく、落ち着いて学ぶ余裕がないのなら、若い記者の皆さんにはあえて「しんぶん赤旗」の国際面を読むことを勧めたい。反体制運動を大扱いする嫌いはあるものの、今の大手メディアの国際報道が限られた大国しかカバーできていない現状では、それも貴重な素材と言える。
       
 前回の最後に、「続編もなるべく早く書けることを念じている」と書いた。私自身も4月内を想定していた。それが5月半ばにずれ込んだのは、がんのせいとは言え、痛恨の限りである。
 「高知から10」で述べた、民主主義とは真逆の維新政治については、その後月刊誌「世界」3月号などが特集で取り上げ、ある程度知られるようになった。でも、大阪ではこの間、維新府・市政によるカジノを含む統合型リゾート(IR)の誘致計画が進み、昨年12月には、誘致場所となる人工島「夢洲」の土壌改良に大阪市が790億円を投入することも判明した。
 それまで吉村知事、松井市長は「IR事業者が1兆円の投資をしてくれる」「IR、カジノに税金は使わない」などと説明してきただけに、地元には寝耳に水の話。しかも、現地は廃棄物などを埋め立てた軟弱地盤で、土壌改良費はこれを上回る可能性が大きい。年明けに始まった各区域向けの住民説明会では「巨額の公金を使うのなら住民投票をするべきだ」の意見が続出した。しかし質疑応答の時間は30分しかなく、担当者の回答もその場しのぎが続いたことで、回を重ねるごとに住民の不信は高まった。
 地元では有志が市民団体「カジノの是非は府民が決める 住民投票をもとめる会」を結成、3月25日から5月25日までの約2か月で府民の50分の1に当たる約15万人を目標に、署名運動を展開中だ。何人もの知人が署名集めの主体者となって汗を流しているが、11日現在の集約は5万人余にとどまっている。
 拙文をお読みの皆さんにお願いしたい。遅まきながら、大阪府在住の知人に署名を働きかけてほしいのだ。詳しくはhttps://vosaka.net/を。
2022/04/04
がん闘病とメディア、そして田舎(上)   ―高知から(11)―
<この記事は2部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・下)と並んでいます>

<石塚直人(元読売新聞大阪本社記者)>
 2月に「高知から(10)」の上下を分けて掲載して、もう2か月になる。抗がん剤治療の冒頭、主治医から根治は不可能との“宣告”を受けて一定の覚悟をし、せめて元気でいるうちにできるだけのことを書いておきたいと考えていたのだが、結局は大腸がんの切除に伴う後遺症で2回の入院を強いられ、当初の送稿予定は大幅にずれ込んだ。

高知医療センターの全景
高知県立中央病院と高知市立市民病院を統合して2005年に開設
地上12階、計620床を擁する
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 2月4日に始まった抗がん剤治療は、少なくとも私の目には順調な滑り出しと思えた。病院は高知県県立中央病院と高知市民病院を前身とし、県内トップの高度医療を担当する高知医療センター(高知市)。毎週1回通院して計3回、所定の薬剤と副作用防止剤など5、6種類の点滴を受け、4回目は点滴を休んで全身の詳しい検査をし、治療の進展ぶりを観察する、が私の選んだ処方だった。
 これで思うような効果がない、或いは副作用が強く私自身がその苦痛に耐えられない場合は、別の治療法に切り替える。もしくは抗がん剤を諦め、苦痛の少ない最期に至る「緩和医療」を、がその前提とされている。
(ここでの「緩和医療」は、昔の“常識”に基づく一面的な見方でしかないことがその後、判明した。詳しくは「下」の最後部に)
 第1回目の2月4日は、2種類の薬剤と副作用防止剤など6種の点滴を受けたが、その後懸念された下痢や吐き気、高熱などの症状は出なかった。コロナ感染を警戒してほぼ自宅にこもり切りだったとは言え、昼間体調のいい時はそれまで同様、パソコンに向かって原稿を打つのも苦にはならない。
 手術後の1月14日に退院して以来、入院中に便箋を破りながら1枚1枚書き留めていた日記メモをまとめたり、次回連載の構想を練ったりして過ごしてきた時とほとんど変わらない毎日だった。ほとんど外出していた発病前とは一変し、3度の食事は連れ合いに頼りっ放し。疲れればベッドに入って休む。
 抗がん剤による腎臓障害を軽減するための利尿剤のせいで、2時間に一度は昼夜の別なくトイレに追い立てられるのはさすがにこたえたものの、「これも治療のためなら」と我慢はできた。2回目の10日(11日が祝日のため繰り上がり)は抗がん剤が1種類に減り、その翌日まで異常はなかった。事態が急変したのは3連休中日の12日だ。

 それまでも時折出ていた腹部の痛みが夜になって激しくなり、いったん治まったものの何時間おきかで断続的に繰り返される。そのうち何か飲んだり食べたりすると食道まで痛み始め、水で薬を飲むのもつらくなった。食事は何度も噛んで小さくなった物を辛うじて飲み込むだけ。連れ合いは「食べないと命にかかわる」とせっつくが、どうにもならない。
 後で考えれば、がんセンターに電話して対処法を尋ねる機会は何度もあった。痛み止めの薬ももらっていた。でも、素人の浅はかさで、抗がん剤治療の副作用ではないからと速断してしまった。15日にはいったん落ち着いたが、昼間のほとんどを眠りこけて過ごし、その気力もないありさま。
 3回目の通院日を翌日に控えた17日未明、腹部の痛みが強まったことで、「明日まで待っては、衰弱して診察時にろくな受け答えもできなくなる」と考え、がんセンターの業務開始すぐに電話を入れ、1日診察を早めてくれるよう頼んだ。主治医は県内各地の病院の紹介で来院する重症患者の対応に追われ、ほとんど休む時間もない激務が続いているが、看護師の伝言を受けてOKしてくれた。
 診断によれば、その日朝の血液検査で白血球が激減しており、脱水症状もひどい。しかも1週間前に比べ体重が5キロ減っている、とのこと。そのまま再入院し、21日に退院するまで5日間を過ごした。
 行き届いた医療と看護の甲斐あって、白血球のデータもほどなく改善され、痛みもほぼなくなっていた。今後の闘病生活について、若い頃から持病に悩まされてきた連れ合いに負担をかけることへの不安や、長い間のコミュニケーション不足(自分なりに子育てに協力してきたつもりではあったが、それが極めて限定されたものだったことが発病後、よくわかった)に伴う2、3日のいざこざはあったものの、その後はまた以前の生活に戻ったつもりだった。

 とくに3月の声を聞くと、春めいた明るい気分になる。退職後の20年2月から毎週2回続けてきた近くの市立中学校での学習支援ボランティア(生徒の宿題の点検。学校の都合で3学期は休み)に絡み、担当者から頼まれていた「卒業生に向けたメッセージ」を書いて送るなどし、自分の今後も楽観視できると思えてきた。3月4日には久しぶりの点滴治療にも出向き、そろそろ次をと連載の準備を始めた矢先、三度目の入院に追い込まれた。

 10日の夕食中、激しい腹部の痛みに襲われた。腹部全体の押しつけるような痛みと、息を吸った時に右腹から右肩まで走る瞬間的な痛み。しばらく休んでも回復せず、病院の救急センターに電話して診察を求め、連れ合いとふたりタクシーで急行した。最初の手術の影響で十二指腸に潰瘍ができ、そこに穴が開いているらしい、とのこと。
 最初の3日間は処置室で全身を点滴管でグルグル巻きにしたまま、排尿は備え付けの尿器で済ませ、14日に一般病棟に移った後も栄養補給は点滴頼り。ベッドで仰向けになっていれば痛みは治まるものの、右や左に体の向きを変えるだけで激痛が走る。
 痛みが少し和らぐとリハビリのため点滴管をつけたままの歩行は許されたが、下半身を含む清拭を生まれて初めて体験した。自分もそんな年になった、と実感した。穴が確実に塞がり、破れる心配がなくなったと主治医が判断するまで時間がかかり、退院は29日。

 3度の入院ではっきり分かったのは、同室の高齢患者の闘病生活の大変さ、そして医師や看護師の想像以上の献身ぶりだった。3人目の主治医となったS医師(消化器外科)は、10日朝から夕方まで外来患者の相手をして過ごし、その後翌11日朝まで夜勤だったという。最終的には夜まで手術が続いたらしい。それでいながら毎朝、7時半か8時頃には「その後どうですか」と回診に訪れる。
 いつ休むのかと心配になり、尋ねると「交代で休んでますよ」。手術はチームで行うため、医長の彼は後進の育成にも尽力。朝の回診はその後若い女性医師が主に担当したが、患者や看護師にも「先生は説明が上手」と敬愛されている様子だった。
 日勤に続いて夜勤、と聞いて驚く私に、彼は「医師不足のため、現場はそれが日常化しています。コロナで看護師不足が言われ、ようやく皆の間でそのことも知られるようになってきましたね。いくらベッドがあっても、スタッフがいなければ医療はできないんです」。
 「世界的に見ても、日本は医師の数が少ないですよね。政府は小手先だけの政策より、長い目で見て日本の医療をどうするかをもっと考えるべきでは」と私が水を向けても、とくに否定はしなかった。

 看護師の仕事の大変さは、この間メディアの報道に伴い、社会の関心も高まっている。待遇改善も含め思い切った措置がなければ、医療の現場は崩壊しかねない。高知医療センターでも日勤、夜勤で2人ずつがペアになり、病室を巡回しながら重症患者のケアをする。夜勤でも交代で仮眠を取り、いつも何人かが働いている。とくに重篤な患者さんは、ほとんどひっきりなしに誰かが世話をしていた。
 私はなるべく彼女たちの名前を教えてもらい、「〇〇さんはナイチンゲールの生まれ変わり」などと冗談めかして献身ぶりを称えてきた。あなたは、もナースの皆さんは、もやはりその場にそぐわない気がするからだ。
 注射の痛いことを「すみません」とわざわざ謝る人には「昔の兵隊さんは戦地でろくな薬も麻酔もなく手術をされた。痛みを訴えても、貴様はそれでも帝国陸軍軍人か、と怒鳴られておしまい。今は天国です」。「そうなんですか?」「もちろん私ではなく、亡くなった父の時代のことですけど」。
 マスクのせいもあって顔を覚えるのが難しく、名前を呼んだつもりが人違いのこともあった。それでも優しい微笑みが返ってくることが多かった。
 患者さんの中にはいわゆる「せん妄」のせいか、夜中に暴れたり大声を出したりする人もいる。私は2度目の入院の最後の深夜、同室になったばかりの高齢男性が「何でこんな所におらんといかんのや」と騒ぎ、ポータブルトイレをひっくり返したらしい音を耳にした。看護師が数人で「もう遅いですから」「同室の方にもご迷惑ですので」と説得しても通じない様子で、しばらくすると静かになった。トイレに行く際に見ると、ベッドが運び出され、彼もいなくなっていた。誰もいない別室に移されたという。
2022/04/04
がん闘病とメディア、そして田舎(下)   ―高知から(11)―
<石塚直人(元読売新聞大阪本社記者)>

 入院生活の記述が長くなったが、私が書きたいことは別にある。前回の包括連携協定について、多くの識者が「ジャーナリズムの本旨にもとる」と批判の声を上げたものの、世論として根付くには至らなかった。多くの有権者にとって、それは自分の暮らしとはあまり関係のない、単なる論壇の議論とみなされたからだろう。
 その1つの理由は、発言の多くが首都圏の論者によってなされ、とくに大阪で目立つ維新の反民主主義的な行政手法やそれに迎合したようなテレビ番組についての理解に乏しいことがある、と思う。その結果、議論は一般的な「あるべき」ジャーナリズム論の引き写しから脱しにくく、よくある左右対立の一例とされたのではあるまいか。
 さらに、私などより若い世代の記者の仕事のイメージが、かつてのような「弱きを助け、強きをくじく」から遠くなっていることも見逃せない。今の有権者にとって、記者のそれは官邸の記者会見のテレビ中継に代表される「決まった質問しかせず、皆がひたすら下を向いて発言内容をパソコンに打ち込んでいる」姿だろう。そこから浮かび上がってくるのは、権力を監視するどころか相手に付き従うイメージでしかない。ロシアやウクライナで自由や平和を求めて闘い、拘禁され拷問される記者像とはあまりに遠いのだ。
 つい2年と少し前まで新聞記者だった自分を棚に上げて理想論を述べる資格など、私にはないかもしれない。でも、かつて自分が働いた田舎の支局には、今の内閣記者会とは全く別の取材スタイルがあり、それはまだ世界レベルの記者に近い、との思いを打ち消し難いのも確かだ。
 どこが違うのか。東京の政治部や社会部で勤めたことのない私にも言えるのは、高度に管理・統制された環境での取材と、役所や団体による広報資料がほとんどない取材の差、ということだ。私が初めて赴任した頃の高知支局、とくに田舎の通信部では、自分の足で回らない限り1本の記事も書けない、が当たり前だった。そのせいか、たまにしか原稿を書かない先輩もいた。良くも悪くも、のんびりした世界だったことは間違いない。
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高知医療センターは高知県の中核病院として、県内で唯一ドクターヘリの基地を併設している。医師と看護師が同乗して救急現場に向かい、患者を現場から医療機関に搬送する間に機内で必要な処置を施す仕組みだ
(3月29日、11階展望室から撮影)
ヘリ基地を飛び立つドクターヘリ(3月29日撮影
 仮に当時の田舎記者が今、都心の政治部記者より「理想に近い」(?)とすれば、その内実を後輩に伝えることは私などの責任でもあるだろう。実際、あの頃でも隣の愛媛県は県の情報管理が徹底していて、高知とは比較にならないほど大量の広報文書を流し、知事に好意的かどうかを巡って各記者への対応を変えている、と同県駐在から戻った他社の記者が驚いた表情で話していた記憶がある。
 インターネットの普及元年とされる1995年から数年が過ぎた頃、世界の情報量がそれ以後、幾何級数的に増加し、今の1年分は過去何百年かの総量の何倍にもなった、というデータをどこかで読んだ。その後20年が経った今、ネット上に目立つのは「これを買えば儲かりますよ」という宣伝コピーばかり。電車内で新聞を読む人が姿を消して久しく、誰もがスマホを手にうつむき、ゲームに夢中になっている。
 とくにこれから社会人となる若い世代の人たちが、今の日本のように働く人たちの人権を無視した社会を「仕方がない」と諦めていて大丈夫なのだろうか、と心配にならざるを得ない。

 物事を考えるには、すべて基本に立ち返るのが一番という。人類の歴史を振り返ってみれば、よほどの高山地帯か砂漠などでない限り、誰もが夜も照明の下で暮らせるようになったのはごく最近のこと。それまで夜は寝るしかなかった。日の出      とともに起きて仕事に汗を流し、家族の団欒を経て休む。その繰り返しで人は生き、死んでいった。
 今、テレビも新聞も週刊誌も、ほとんどが便利でも時間に追われる首都圏の人たちが作っている。テレビ局では報道とエンターテインメントの境目が薄れ、実際に番組を作っているのは下請けのまた下請け、も少なくない。映像で流れるのは高層ビルやスーツ姿の会社員ばかり。たまに田舎の山野や昔ながらの人情がドラマやルポ番組を彩ることはあっても、「もの珍しさ」を超えた何かを提示しているケースは少ないようだ。
 ただ、僻地にあって大企業の少ない高知では、昔のままの高齢者が多い。日本で最も軌道の長い路面電車は、昼間の客の半数以上が普段着の高齢者で、杖をつくのは当たり前。連載「高知から」を特定の地名ではなく、本来あるべき田舎の総称と考えるなら、「ここから新たな社会運動を」との訴えを私が試みてもいいだろう。

 もともと、田舎は異色の詩人や作家、著述家が多く輩出した土地である。東北ではかつての宮沢賢治や石川啄木、さらに岩手・沢内村で乳児と老人の医療費を無料化した深沢晟雄村長の業績を追った菊地武雄、九州なら筑豊の上野英信、谷川雁といった人たちの文章から、思春期の自分は多くのものを学んだ。首都で国を動かす権力者から遠い昔ながらの庶民の日常生活が彼らの思索に与えたものは大きかったはずだ。東京からも優れた文豪が出たが、彼らの日々も庶民とあまり変わらなかったろう。
 今の情報の発信源は、現政権に近い勝ち組の評論家やその取り巻きばかりに見える。第二次安倍政権以降、NHKと民放キー局の双方で批判的な論者が次々に交代させられた経過は、広く知られている通り。
 安倍氏のような政治家や富裕層は、弁護士ら専門家を顧問に安全圏で過ごし、庶民生活とは無縁の人が多い。それにあやかりたい新自由主義者は競争に負けることを恐れ、「とにかく勝たねば」と周囲を煽る。それなりに善意に基づく?から厄介で、いくら論争しても勝つのは難しい。
 一方で、政府に批判的とされる陣営の運動論は、概してベトナム反戦運動の時代からあまり進んでいない。あえてネット時代に背を向け、個人やグループにこだわる向きもある。

 とくに気候危機を巡り、世界の良心的な人たちにとって無尽蔵の経済成長など不可能なことが明白になった今、現代日本の大手メディアの体制追従が倫理的に見て正しくないことは、改めて指摘する必要もない。ただ、それでは代わりに何を参考にすればいいのか、と尋ねられれば、答えに窮する人もけっこう多いような気がする。それほど、全国規模で情報の一元化が進んでしまっているからだ。

 大都市、とくに首都圏の若い皆さんにお願いしたいことがある。せめて年に一度でいいから、「昔ながらの田舎」を映像からではなく、自分の体で体験してほしい。そこに住んでいる人たちがどんな暮らしをしているのか、何を望んでいるのか。実際に尋ねてから自分の日常を振り返れば、何かの示唆が得られるのではあるまいか。
 できれば1泊して、大自然の懐に包まれること。別に野宿などしなくても、海辺の観光地ホテルに泊まり、夜に砂浜でしばらく寝そべれば十分だ。潮騒を聞きながら30分も星空を見上げていたら、砂漠や高山地帯に住む異国の人たちと似た気分になれるだろう。必要なのは、暗闇と沈黙。誰かと一緒の場合でも、せめてささやき声で。

 私は香川県小豆島で生まれた。小学校3年の時、父の転勤で高松市郊外の町に引っ越し、高校までは高松。大学は大阪外大(現大阪大外国語学部)の朝鮮語学科で、卒業後は読売新聞大阪本社、初任地が高知である。本社と高知支局以外では、今は廃止された社会部吹田通信部に1年、姫路と広島の両支局に2年勤めただけ。
 東京には仕事で何度か出張したが、とにかく人の多いのに圧倒され、住みたいと思ったことはない。積雪などで電車のダイヤが止まるたび、無数の通勤客が歩いて会社や家路を目指すのを見て、「なぜここまで東京一極集中を進めたのか。これでは万一の際、首都崩壊で国そのものが壊滅する」と歴代の自民党政権の無策に憤りを感じざるを得ない。有権者がそれを支えてきた、という意味では、私も含め皆が共犯者なのだろう。

 都会と田舎の対照として私が覚えているのは、70年代半ばの学生時代、節約のため新幹線を使わずに実家に帰省した思い出だ。大阪駅から姫路駅まで新快速で1時間足らずの半面、姫路駅から岡山駅までは各駅停車で1時間半以上。しかも新快速が15分間隔で8両?編成に対し、普通は1時間に1本(通勤時間帯はもっと多い?)、しかも1・2両。車窓からの              風景も、姫路以西、とくに岡山県境付近からは小山と木々の緑が急増する。
 50年前でさえそうだった。大阪本社在勤中、大阪市営地下鉄の真ん中を南北に走る御堂筋線は確か数分おきに8両?。東京ではもっと長く、しかも運転間隔は短い。このままで近く列島南岸を襲うという震災をしのげる、とは考えにくい。

 大都市に人口が集まる一方、田舎はどこも高齢化と人口減に苦しみ、都会からの移住者受け入れに知恵を絞っている。私の住む香美市は16年前、旧3町村が合併して市制を敷いたが、市域の大半は山岳地帯。人口減で町内会などが成り立たなくなっている地域も多く、治山治水の基礎までが危機に瀕している。
 南西端の旧土佐山田町は高知空港やJR土佐山田駅に近く、高知市より地盤が高いとして同市からの転入者も多い。私は連れ合いがここの出身だったこと、長い高知勤務で郷里の香川より知人・友人が格段に多いこと、両親の実家には名古屋で 独り暮らしの弟が帰省する可能性もあることなどから、退職後もここに住んでいる。
 周囲に山と緑を望み、酒と魚がとびきり美味。冬でも晴れてさえいれば空は真っ青という環境は、快適そのものと思えた。退職後も、以前の連載で触れた高知市立自由民権記念館の「友の会」幹事や「平和資料館・草の家」の役員になり、地元香美市の地域振興にも何かできれば、と先の中学校ボランティアなども続けていた。がん発病後、それらはストップしたままだ。

 退院から3日後の4月1日、医療センターを再訪し、がん治療の主治医(腫瘍内科)の診察を受けた。肝臓の写真によると、これまでの抗がん剤治療で改善された部分と悪化した部分が混在しているものの、悪化のペースが早く、従来の治療法を続けるのは無理。別の治療法もあるが、それとは別に在宅での訪問医療も見据えて別の緩和医療機関と連携する必要がある、とのことだった。
 同じ治療法が再開されると思い込んでいた私の当惑ぶりから、彼は結論を「4日まで待ちます」とし、私は連れ合いとふたりでそのための担当者と面会して帰宅したが、これで一歩、最期が近づいた感は否めない。何となく半年くらいは書くつもりだった「高知から」シリーズも予定を練り直し、とりあえずこれだけを「11回」とした。続編もなるべく早く書けることを念じている。
(以下、後に加筆)
 (がん治療は07年4月の「がん対策基本法」施行以来、従来の医療関係者主体から「患者や家族を医療スタッフが支える」方向へと大きく転換、治療法の進歩とともに拠点病院での相談支援センター設置、在宅医療を含む多業種の専門家との連携が進んだ。今では「緩和医療」はその全ての前提となる概念であり、がんが見つかった時点から必要に応じて行われるべきものとされている。かつてのような「治療を諦め、後はなるべく楽に最期を迎えるだけ」では最早ない。
 でも私自身は発病後、突然の入院など身辺の檄変に追われてそうした現状について学ぶ機会がなく、多忙な主治医に遠慮するなどして彼らの説明が十分、理解できないことも多かった。
 退院後に国立がんセンターがまとめた概説書を読み、4日以降の主治医との面談でいくつも疑問点を質問し詳しい回答を得る中で、在宅医療との連携を単に「死期が早まった」とだけマイナスに受け止めたのは勘違い、と気がついた。
 読者の皆さんに誤解を与えたことをおわびしたい)

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