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2020/11/05
自由は土佐の山間より(下)     ―高知から(3)―
石塚直人(元読売新聞記者)

 10月10日に講演した新井さんは、民権期に作られた100余の私擬憲法草案中、枝盛の「日本国々憲案」と並んで双璧とされる「五日市憲法」を発見した。まだ22歳、東京経済大学で著名な近代史家・色川大吉教授のゼミ4年生だった。
 五日市憲法は204条あり、詳細な国民の権利規定、行政府に対する立法府の優位、国民の権利を保護するための司法権の配慮(国事犯への死刑禁止など)が際立っている。
原本は、東京都西部の五日市町(現あきる野市)にある旧家・深沢家の土蔵で見つかった。画期的な発見とはすぐわかったものの、起草者らしい「千葉卓三郎」の名は誰も知らなかった。同じ土蔵にあった紙切れを手がかりに、宮城県から神戸市へと消息を探し求め、人物像を明らかにしていく様子は、著書「五日市憲法」(岩波新書)のハイライトだ。
 卓三郎(1852~83)は戊辰戦争に従軍して敗れ、医学や皇学を学んで上京。ギリシャ正教会の伝道者など遍歴を重ねた後、80年に五日市で教職を得た。ここは自由民権運動が盛んで、何キロもの山道を越えて百人以上が講師の話を聞く「学芸講談会」、部外者の傍聴なしに会員が難しいテーマに挑む「学術討論会」などの民権結社があった。
運動のリーダー深沢権八は、豪農としての財力を新刊本の購入につぎ込み、書庫を住民に開放。卓三郎の転入後は、父・名生とともにその憲法研究を物心両面で支えた。自筆の草案がここで見つかったのもうなずける。

 新井さんは講演で「五日市憲法」と両結社について詳しく説明した。両結社の会合は月3回。学芸講談会は弾圧を避けて会則に「政事法律を論議せず」と書き、組織拡大のため遊説委員を各地に派遣した。権八のメモに残る学術討論会の討論テーマ63項目には、目を見晴らされた。
 「女戸主の政権(選挙権)」は、楠瀬喜多を連想させる。さらに「外国人を裁判官にしていいか」「財産により兵役を免れることの利害」「兄の死去後、弟が兄嫁を娶ることは法的に許されるか」。「不治の患者が苦痛から死を望む時、医師立ち会いの下で薬殺を認めるか」は、今も続く難問と言えよう。
 討論は、発議者が自説を述べた後、賛否の計3人がコメント。続いて発議者が答弁し、議長が議論をまとめて「起立多数」で決着した。会議録は未確認ながら、書記2人の選任も定められており、議論が草案の下敷きになったとみられる。
 講演では「卓三郎が81年夏に高知に赴いた」との説も紹介された。深沢父子宛ての手紙にそれらしい記述があり、憲法草案に没頭していた時期の枝盛との対面シーンを考えると心が躍る。ただ、立志社の記録や地元新聞にも卓三郎の手紙類にも、今のところ高知での活動を裏付けるものはないという。

 「五日市憲法」は、色川教授が提案して名付けた。原文の「日本帝国憲法」では明治憲法と間違われやすく、地域ぐるみの所産との意味も込めた。しかし、この名が広まると、地元から疑問や反論が相次いだという。「草案は千葉が個人で作った」「もし広範な大衆が参加したのなら、今その痕跡がみられないのはなぜか」。
 新井さんは、この声をバネに五日市の近現代史を調べ直した。そして大正期に労働団体「友愛会」の分会、敗戦後には権八の孫を会長とする「五日市新政会」などが結成され、高く評価されていたことを再発見した。質疑でも「自由民権運動が地下水となり、その後も五日市を支えた」と述べ、各地に残る地下水を掘り起こすよう呼びかけた。

 全国で「自由民権百年」が祝われた1981年、私は高知支局で3年目の駆け出しだった。5月に組合の定期大会があり、岩波新書で出たばかりの色川「自由民権」を大阪行き夜行フェリーの中で読んだ。
 重罪人として北海道の原野に送り込まれ、拷問や難工事で命を落とした活動家群像を描いた序章「北の曠野から」に圧倒された。翌日の大会で閉会直前に発言を求め、ほとんど休みが取れない地方支局の窮状を縷々訴えたのは、その余韻としか思えない。支局には本社からすぐ電話が来たらしく、後で先輩にこっぴどく叱られた。

 色川「自由民権」は、立志社や枝盛を高く評価した上で、「立志社から愛国社に至る潮流は民権運動の主流ではない」と断じている。これが当時の学界の大勢だった。土佐派の運動を「士族民権」と見なし、東日本を中心とする農民、商工業者、知識人らの運動に注目した。全国各地で民衆史の掘り起こしが進んでいた。
 枝盛の「日本国々憲案」は、人民が暴虐な政府に対し「兵器を以て抗する」抵抗権・革命権を認めている。深刻な不況下で政府批判が厳しく弾圧された1883~4年、地方の自由党員や農民による激化事件(武力蜂起)が相次いだ。しかし自由党本部は、トップの板垣退助らが欧米視察に出、穏健民権派の改進党を攻撃して運動を分裂させ、あげくに解党した。
 理想社会を求めて蜂起した人たちに民権運動の精髄を見る色川教授らにとって、彼らを「軽挙妄動」と切り捨てた土佐派の評価が辛いのは当たり前。私もそれに影響され、地元の運動をきちんと学ぶ気にはなれなかった。記念館建設絡みの記事はいくつも書いたものの、開館時には転勤していた。

 退職後の今夏以来「友の会」にかかわり、10月は「五日市憲法」ほか民権関係の本を読みあさった。「自由民権」にも久しぶりに目を通し、昔を知る関係者から話を聞いた。
60年代から高知の民権研究を引っ張った外崎光広(故人、元県立高知短大教授)は、青森出身で家族法が専門だったが、高知に着任して枝盛の女性解放論、そして土佐自由民権運動全体にテーマを広げた。
 ただ、当時は退助や枝盛らが「郷土の偉人」としてたたえられる一方、運動を底辺で支えた人たちや社会経済構造の研究は乏しく、学界での評価も低かった。外崎はそうした現状を批判し、科学としての民権研究に力を注いだ。高知の運動を軽視する中央の研究者には、新たな知見を武器に反論した。
 82年1月に彼を会長とする「土佐自由民権研究会」が9人で発足したのは、前年に横浜市で開かれた自由民権百年・第1回全国集会に参加したメンバーが「土佐派への低評価」にがく然としたからという。集会の実行委は、秩父事件や自由党解党などから百年に当たる84年の第2回全国集会で終わりと考えていた。研究会は「高知ではその後も広範な闘いが続き、三大事件建白運動に結びついた」との手紙を実行委に送り、外崎が第2回集会で「次は高知で」とアピール、87年の第3回集会が実現した。
 この集会で基調講演した外崎は、中公新書「自由民権」にある多くの事実誤認を指摘する一方、民権派の実業家が三菱会社に対抗して高知―神戸間の船賃を引き下げた「大分丸事件」などの新事実を紹介した。建白運動に参加した民権家・織田信福と妻竹(山崎竹)の孫の夫人も登壇、2人について語った。
 研究会は集会の報告集を出したほか、10年がかりで民権期の新聞や刊行物を調べ、94年「土佐自由民権運動日録」にまとめて活動を終えた。メンバーには記念館建設期成会の幹部や高知市職員もおり、議論は記念館の構想にも生かされた。記念館友の会の岡林登志郎会長(72)は「展示に板垣退助らの顕彰が乏しいとの声もあるが、運動を担った無数の人たちこそが大切ということです」と話す。

 計3回の全国集会の報告集(三省堂)を読むと、多くの研究者、市民が参加した討論の熱気は凄まじい。それから30年以上が過ぎた今、運動への関心は明らかに薄れた。メディアに取り上げられることも少ない。
 それでも一昨年12月、新井さんら研究者有志が「全国自由民権研究顕彰連絡協議会」(全国みんけん連)を結成、昨年秋に立正大学で第1回大会を開いた。自由民権記念館や友の会も連携し、記念館は今秋「板垣退助伝記資料集」(6巻セット、1万8000円)の刊行を始めた。高知短大で外崎教授に学び、長く民権研究に打ち込んできた公文豪さん(72)(元県議)が編集。3年間で計18巻を見込んでいる。
公文さんによると、退助の人気は戦後に急落、坂本龍馬と逆転した。彼が自分に関する資料の多くを焼き捨てたため、全貌を知るには誰かの日記の断片をつなぐしかなく、不明な点が多いせいだという。ただ、徴兵令に強く反対したこと、3度も爵位の返上を試みたことなどからは、極めて高潔な人格と識見の持ち主だったことがうかがえる。

無名の民権家の闘いを重視した展示物(高知市立自由民権記念館提供)
 自由民権運動の歴史は、権利に目覚め立ち上がった無数の先人たちの苦闘を浮かび上がらせる。権力にすり寄りその一部となった元闘士も多かったとはいえ、国家によって息の根を止められた後も地下水となって湧き出し、子孫を勇気づけてきた。国の無法な暴力への抵抗という面で沖縄の粘り強い反基地運動などはその典型だろう。高知関係者では、大逆事件の幸徳秋水や反戦詩人・槇村浩らが後継者と見なされている。
 戦前に枝盛のそれを深く研究した鈴木安蔵の憲法草案は、日本側の案の中で唯一GHQに採用され、現憲法に色濃く反映した。押し付けられた憲法だから、などと安易に自民党改憲案に乗せられては、国民の権利は明治時代に逆戻りしかねない。
 長く続いた安倍政権下で立憲主義が蹂躙され、10月には後継の菅首相が独断で学術会議会員の任命を拒否した。専守防衛を逸脱した「敵基地攻撃論」が公然と語られ、来年早々の発効が決まった核兵器禁止条約は無視したまま。日本の政治はまさに「戦前」だ。
 にもかかわらず、私たちの大半は黙ってそれに従っている。高度資本主義社会で孤立しがちなことが主因とはいえ、私の元職場を含むかなりの大手メディアがまともな政権批判をしなくなった責任も大きい。

 枝盛は1877年、「世に良政府なる者なきの説」を記した。よい政府などはない、人民がそうできるだけだ。政府に盲従して監視を怠れば、政府はそれにつけこんで悪いことをする。仮に自分は抵抗できないにせよ、政府を信じてはならない、と。
 外国語が全く読めず、翻訳書だけで近代民主主義を身につけた天才は、34歳で亡くなった。もし今生きていたら、どんな言葉を残しただろうか。

 自由民権運動の概説書は難解になりがちで、素人には敷居が高い。私が最も心を動かされたのは、自由民権百年の第1回全国集会報告集(82年)中、最晩年の鈴木も出席した第1分科会の議論(大きな図書館にはある?)。高知のそれでは、公文さんの「土佐の自由民権運動入門」(07年・高知新聞ブックレット、税込み700円)が読みやすい。

(文中の明治期文献からの引用は、適宜現代文に直している)
2020/09/20
映画「孤島の太陽」を見て(上)   ―高知から(2)―

島でいのちを守る駐在保健婦の生涯

石塚直人(元読売新聞記者)

 台風10号が接近していた9月5日、高知市内で懐かしい映画が上映されると聞いて出向いた。香川・高松での中学時代に学校で見た「孤島の太陽」(1968年、日活)。医師のいない高知県南西端の離島・沖の島(沖ノ島村、54年から宿毛市沖の島町)で23年にわたり駐在保健婦として勤務、島民に慕われた荒木初子さん(17~98年)がモデルになっている。
 駐在保健婦は、本来は保健所を拠点に活動する保健婦が、無医村などに駐在して住民の保健衛生業務を担う制度。強兵づくりを狙いに戦時中の42年、全国で導入されたが、戦後は廃止され、48年に高知県で新たにスタートした。
 荒木さんが着任した49年、島は乳児死亡率が全国平均の4倍もあり、寄生虫による風土病フィラリア症で亡くなる人も多かった。彼女は午前中、駐在所で事務仕事をし、午後は各家庭を訪問して保健指導に努めた。隣の鵜来島にも赴いた。
 島は傾斜地で道が狭く、石段が多いため自転車は使えない。地区によっては300段余にもなる石段をずっと歩いて通ったという。看護婦と助産婦の資格も持ち、病人やお産があると昼夜を問わず駆けつけた。
フィラリア症は、蚊が媒介する寄生虫フィラリアにより、足が象のように腫れるなどの症状が出る。彼女は蚊の駆除と衛生向上を訴え、夜中だけ活動する寄生虫の有無を見極めるため、深夜の巡回採血を続けた。62年には特効薬が発見され、患者は激減した。
 島民は最初、彼女に反発したが、次第に心を開き、転勤の噂が出ると撤回を求めて県庁に陳情団を繰り出すまでになった。乳児の死亡も目に見えて減り、65、66年には悲願の死亡ゼロを達成した。

 映画は、直木賞作家伊藤桂一の小説「『沖ノ島』よ  私の愛と献身を」(67年)をもとに作られた。初子役は66年度のNHK連続ドラマ「おはなはん」に主演し、人気絶頂だった樫山文枝。他に宇野重吉、芦川いづみらが脇を固め、現地ロケでは多くの島民がエキストラを務めた。
 映画の冒頭、島に向かう巡航船が暴風雨のため途中で宿毛に引き返し、続いて重病の子どもを「もうすぐ先生が来るから」と悲痛な声で励ます家族の姿が描かれる。しかし欠航で医師は来られず、子どもは死ぬ。その葬式の日に初子が着任するとの設定だ。
 前半は彼女を落胆させるシーンが多い。婦人会の集まりで食事の改善を説いても反応はなく、「島には島のやり方がある。小娘に何がわかるか」と陰口を叩かれる。小学校で児童に入浴回数を尋ねると、月に1回はおろか、今年はまだという子もいる。病人宅を訪れると「何しに来た?」。傍では祈祷師がまじないをしていた。
 そんなある日、フィラリア症の患者が看病の甲斐なく絶命した。彼女は県庁に掛け合って大学調査団の派遣にこぎつけ、各家庭を回って深夜に採血場に来るよう呼びかけた。しかし、定刻を過ぎても誰も来ない。中止を提案する医師らを遮って「もう1度頼んできます」と夜道を1軒ずつ回るうち、道端で気を失った。
行方を捜しに出た若者の「保健婦さんが倒れた!」の叫び声が漆黒の中でこだまする。翌朝、彼女の一途さに心を揺さぶられた島民らは大挙して採血場を目指した。これがフィラリア症撲滅への出発点となった。

 初子は2年後、調査団の一員で特効薬を発見した青年医師に求婚された。「小児科医を開業するので、離島して支えてほしい」。同じ頃、県は彼女を異動させる方針を決めていた。恩師でもある県の保健婦係長が、方針撤回を迫る島民の説得に訪れた。集会場を埋めた約30人は「おかげで子どもが無事に成長した」「夫婦げんかの仲裁までしてもらった」などと初子をたたえ、「転勤は、わしらに死ねと言うのと同じこと」と声をそろえた。
係長は「女性としての幸せも考えてあげて下さい」と繰り返し、全員の同意を取りつけた。初子は皆に見送られて巡航船に乗る。しかし、やはり島を見捨てることはできず、途中の港でなじみの老人が操る小舟に乗り換え、引き返した。
 それから15年。かつて親代わりとして育てた弱視の女児が高知市で独り立ちし、自ら縫った浴衣を送ってくれた。外ではにぎやかな夏祭りが開かれ、初子は若者たちと談笑する。2年連続の「乳児死亡ゼロ」などを示すテロップが流れ、大団円となる。 (続く)
2020/09/20
映画「孤島の太陽」を見て(中)   ―高知から(2)―
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「なかよし交流館」で談笑する人たち
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小物作りを楽しむ女性たち
(いずれも、2005年頃、廣末ゆかさん提供)

過疎地に見た「人間としての意地」奈良県の山地にも保健師の活動


石塚直人(元読売新聞記者)

 映画のモデルになった荒木初子さん(1917~98年)は、この島の出身だ。医療を志して高知市内の学校に在学中、母の危篤を知らされ帰郷したものの、荒天による欠航で最期に間に合わなかった。看護婦として大阪の病院で働くうち結核に感染し、退職して郷里で療養。奇跡的に回復したことから、村の依頼もあって県の保健婦養成所に入り、駐在保健婦となった。
 フィラリア症撲滅の功績などで67年の第1回吉川英治文化賞を受け、映画化で全国に名前が知られた。試写会のため上京中に脳梗塞で倒れ、入院・療養生活を経て72年に退職。その後リハビリを通じて左手で字が書けるまでになり、生涯独身で島民に尽くした。生家は記念館として保存され、日中は隣家が管理していて見学もできる。

 新人記者として高知支局に赴任した79年、私はいつか荒木さんに会ってみたいと思っていた。でも、実現はしなかった。
 全国紙の地方支局は通常、県庁所在地にあり、記者は県庁や警察などの持ち場を分担して記事を書く。ただ、支局から離れた地域は狭義の支局員ではなく、そこに駐在する通信部員が担当する。行政も事件も一手に、が原則だ。
 沖の島は中村(現・四万十)通信部の管内で、取材には現地の先輩記者の了解が要り、憧れたというだけで押しかけるのも憚られた。そのうち記憶が薄れ、88年には大阪本社地方部、さらに姫路支局などに異動した。94年には再び高知支局に戻ったものの、デスクをさせられるなどして動けなかった。

 久しぶりに思い出したのは2014年10月。大阪本社で夕刊の特集記事などを取材する部署にいて、管内(近畿と中四国)の大学を紹介する連載の順番が回ってきた。すでに有名どころは紹介済みで、記事も大学単位でなく学部単位に細分化されていた。
こんな時、私は誰もが注目しがちな分野は避ける。地味でも貴重なものに光を当てたいからだ。地方の大学のHPをめくるうち、奈良県立医大(医学部)にぶつかった。看護学科卒業生の中に、山村で働く保健師がいるという。
 奈良県は大半が紀伊山地に属し、大阪・京都と近鉄で直結する最北部以外は過疎化・高齢化が著しい。すでに故人となった荒木さんの名前がひらめいた。
 連載は一面の半分以上を使い、メーン記事のルポ「熱中講義」とサブ記事、ミニ解説で構成する。メーンは保健師養成課程の現場実習と決め、大学に取材を申し込んだ。後日、「メーンは医学科の授業に、と学部長が言っている」と連絡があり、大学に出向いた。
 医学科と看護学科では社会的評価で前者が上、が業界の常識(?)だ。相手を説得するには、昔「孤島の太陽」に感動したので、と強調するしかない。「怪訝に思われるでしょうけど、あえてお願いします」と頭を下げ、了解を取りつけた。
 現場実習は、県中部の天川村で4年生の女子学生2人による家庭訪問を取材した。彼女らは実習期間中、村保健師の家庭訪問に同行し、村社会福祉大会や育児サークルの会合に参加してきた。かつて大阪府の保健師も務めた指導教官は、丁寧に応対してくれた。
 取材の日、2人はパーキンソン病で体が不自由な高齢女性(77)宅を訪ね、病状や生活ぶりを聞き出して助言を試みた。最後は指導教官と保健師が講評した。農作業と介護に追われる夫(79)の「自分が元気なうちは一緒にいてやりたい」には、過疎地に生きる高齢者の「人間としての意地」を見る思いがした。

 それから4年余が過ぎた19年1月。3度目の勤務となった高知支局で、荒木さんの「妹弟子」に会えるとは思わなかった。県東部の5町村でつくる「中芸広域連合」で地域包括支援センター長を務める廣末ゆかさん(59)である。
 地元で生まれ、県立高知女子大(現・県立大)看護学科を出て83年に看護婦となり、97年春に保健婦に転じた。病院勤務中、慢性疾患を抱えた人たちが地域で暮らせる仕組みの必要性を痛感したこと、大学で接した「公衆衛生看護」の講義が抜群に魅力的だったことがきっかけだ。以来、主にハンデを持つ人たちの居場所づくりに打ち込んできた。
 田野町在職中に整備した「なかよし交流館」は、子どもから高齢者までが障害の有無を超えて集い、支え合う場所。その後県内51か所にできた「あったかふれあいセンター」の原型だ。中芸広域連合保健福祉課では、発達に課題を持つ子どもの支援に尽力した。
                                 (続く)
2020/09/20
映画「孤島の太陽」を見て(下)   ―高知から(2)―
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「遊分舎」で。子育てを学ぶお母さんたち
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郷土料理の作り方を学ぶ人たち
(いずれも2018年頃、廣末ゆかさん提供)

コロナの時代が問う「生存権」
「これからが頑張りどころ」と妹弟子

石塚直人(元読売新聞記者)

 荒木さんの妹弟子、廣末ゆかさん(59)に公衆衛生看護を講じたのは、高知県の駐在保健婦制度の礎を築いた上村聖恵(かみむら・さとえ)さん(1920~87)。長く県の保健婦係長の職にあり、映画にも実名で登場(演じたのは芦川いづみ)した。
 上村さんは看護婦として勤めた後、県立保健婦講習所を出て42年、北川村の駐在保健婦となった。45年には母校の講師として呼び戻され、48年4月からは県医務課看護係として働く。新たな駐在保健婦制度が全県で導入されたのは同年12月のこと。
 この年1月に施行された新保健所法は、人口10万人当たり1か所の保健所設置を定めていた。高知は県土が広く、沖の島を含む中村(現・幡多)保健所の管内だけで、当時8つの保健所があった香川県に匹敵する。これでは過疎地の住民はとても通えない。

 新制度の導入は、厚生省を経て45年11月に高知県衛生課長(後に部長)に着任した聖成(せいじょう)稔の功績とされる。東京帝大医学部を出て各地で公衆衛生行政に携わった逸材であり、実質的にそれを支えたのが上村さんだった。
 木村哲也「駐在保健婦の時代 1942-1997」(医学書院)は、「住民が必要に応じて保健婦に相談に来る」米国流の保健行政を導入しようとしたGHQ担当者に、まだ20代の彼女が激しく抵抗した、とする。保健婦は保健所で住民を待つのではなく、住民の中に入っていくべきと考えたからだ。そこには自身の駐在保健婦としての体験と、新憲法が高く掲げた「主権在民」の理念があった。
 彼女は年に2回、県内の駐在保健婦を集めて研修会を開き、厳しい指導の傍ら現場の苦労話に耳を傾け、涙を流したという。まだ若い保健婦たちは激務に加え、周囲の封建的な女性観にもさらされていた。保健婦係長としての在籍は、56年から20年に及んだ。
 高知の駐在保健婦制度は沖縄県などに広がり、彼女は76年から81年まで日本看護協会の保健婦部会長に就く。50年代からは大学などで教え、廣末さんはその最後の学生に当たる。しかし97年4月の地域保健法(県保健所の衛生関連業務を市町村に移管する)施行に伴い、駐在保健婦はその歴史を終えた。

 私が廣末さんに会ったのは、各県で地域医療に尽くした人をたたえる「医療功労賞」(読売新聞社主催)に選ばれた彼女を取材するためだった。職場で話を聞くうち、大学で上村さんの授業を受けたこと、初めての家庭訪問で「今さら何をしに来たんですか」となじられて発奮したこと、が印象に残った。
 訪問先でのこの対応は、尋常ではない。質問してわかったのは、97年春が制度の転換期で、保健行政の現場が混乱していたことだ。歴代の駐在保健婦が引き継いできたはずの「家族管理カード」も失われ、障害を持つ子どもがいるこの母親は、長期にわたって保健婦の訪問を受けていなかった。荒木さんの退職から20余年。彼女の使命感からほど遠い駐在保健婦が何人かいても、おかしくはない。
母親の側からすれば、怒りをぶつけて当然だろう。廣末さんは気落ちせず、逆に意欲を燃え立たせて家庭訪問を続けた。それで地域の信頼を取り戻していったという。

 9月11日、職場に電話して近況を尋ね、資料を送ってもらって読んだ。
中芸広域連合の5町村は全体で人口約1万人、高齢化率45%。典型的な中山間地域で廣末さんが取り組んだのは、制度に住民を合わせるのでなく、住民の力で新しい仕組みを作ることだった。「誰もが人間関係の中で成長し、人生を豊かにできるのです」と振り返る。
 「なかよし交流館」ができて間もない頃、進行性の難病で「死にたい」と繰り返す女性が夫の車で通ってきていた。彼女を変えたのは、認知症の「智恵さん」の一言だ。「あなたも私も、何かあってここにきているのよね。一緒に頑張りましょう」。
 智恵さんは何かを見つけると、鉛筆でメモを取り短歌を作っていた。その優しい口調が、不安と痛みでこわばった心を和らげたのだろう。

 ここ数年は、子育てに悩む母親への支援が目立つ。自身の成育歴や孤立した生活からうまく子どもと接触できず、離乳食教室でも黙って食べさせるだけの例が増えた。
 栄養士や保健師が「アーンしようね」「おいしいねえ」と声をかけ、子どもがうれしそうに反応するのを見て、彼女らは何をすべきかを学ぶ。これを発展させたのが、空き家を利用した施設「遊分舎(あそぶんじゃ)」。子育てを終えた“先輩ママ”が常駐し、一緒に子どもにかかわることで手本を示す。母親同士、さらに高齢者も加わっての交流が進み、保健師と学校が連携した「子どもの生きる力を育む性教育」の取り組みも始まった。
 地域包括支援センターが医師、看護師ら医療関係者と住民をつなぎ、在宅で過ごす高齢者を支える仕組みづくりも動き出した。20人前後の専門職による事例検討会を重ねることで「脳梗塞で入退院後に誤嚥性肺炎を繰り返す」など患者の具体的な生活を知り、ケアの質を高めてゆく。
 自分の職域だけにとらわれず、他の職域との連携を意識することで「1プラス1は2ではなく3以上」を目指す試みだ。並行して、ホームヘルパーや訪問看護師、高齢者施設職員らを巻き込んだ終末期在宅患者の「看取りケア」も手がけている。

 地域で働く保健師の仕事は、荒木さんの時代から様変わりした。新たな制度や専門職が増え、一方で住民ニーズは多様化している。地域の現実に合わせて創意工夫ができた昔と違い、システムに縛られて仕事が画一的になっている、との自己批判も聞かれる。「課題は山積していますけど、これからが私たちの頑張りどころだと思うんです」と廣末さんは話す。「住民が来るのを待つのではダメ、は今も昔も同じ」とも。

 コロナ禍のさなか、全国の保健所・保健師は感染を恐れる市民からの問い合わせに追われた。苛立つ相手から暴言をぶつけられるのも日常茶飯事。そこで明らかになったのは、この20年ほどの間に保健所や公立病院が「採算」本位で施設も人員も大幅に削減され、非常時に対応できなくなっている現実だ。憲法第25条にうたわれた「生存権」を守るために何が必要か。「孤島の太陽」が問いかけるものは大きい。

 「駐在保健婦の時代 1942-1997」(12年、2800円プラス税)を書いた木村さんは、荒木さんと同時代の駐在保健婦を祖母に持つ歴史・民俗学者。祖母を含む高知の元駐在保健婦15人、さらに同様の取り組みをした沖縄県の11人、青森県の6人から詳しい聞き取りを行い、史実とともにまとめた。
 制度廃止に対する当事者の賛否両論、上村さんの退職後は精彩を欠いた高知県の限界などにも触れ、貴重な論考となっている。方言の語り口を残した証言は、著者が私淑する宮本常一の「忘れられた日本人」同様、魅力的だ。

(文中の保健婦・保健師などは、2002年に施行された保健師助産師看護師法に基づき、その前後で使い分けている)
2020/08/27
42年続く「戦争展」(上)      ── 高知から ──

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▲高知市で開かれた「戦争展」(2020年7月5日、高知市立自由民権記念館)=筆者撮影
石塚直人(元読売新聞記者)

 8月はメディアにとって鎮魂の季節だ。原爆忌や終戦記念日などの行事を報じるとともに、独自の切り口から戦争の惨禍を振り返り、平和と人権が守られる社会を展望する特集を作る。戦後75年の今年も力作が多かった。そこには記者や制作スタッフの祈りがこもっている。
 15日のNHKスペシャル「忘れられた戦後補償」は、国が戦後一貫して民間人への補償を拒んできた経過を紹介した。空襲で重い障害を負いつつ地方から陳情に訪れた高齢者を、厚労省の役人は冷たくあしらう。「そんなに金が欲しいのか」など、匿名の無慈悲な手紙が相次いだ場面には、今のコロナ禍を連想して気が重くなった。
 軍人・軍属への手厚い補償は、彼らを票田とする政治家の要求による。一方で官僚たちは、民間人へのそれを「財源がない」と切り捨て、被爆者やシベリア抑留者ら一部に補償ならぬ救済措置を施すにとどめた。同じ敗戦国のドイツやイタリアが軍民を問わず、平等に補償しているのと比べ、弱者への差別と断じるしかない。

 私は昨年末までの40年を読売新聞(大阪本社)の記者として過ごした。うち高知では計3回、通算16年半を勤め、退職後もここで暮らしている。
 新人として赴任した79年7月に高知市で始まり、今年42回目を迎えたのが「戦争と平和を考える資料展」。戦後30年を迎える頃から全国各地で「空襲を記録する会」が作られたのに倣い、45年7月4日未明の高知空襲による惨禍を明らかにする作業が有志の手で取り組まれた。市民から寄せられた約600点の資料の展示は、5日間で約9000人を集めた。
 主催した「高知空襲と戦災を記録する会」は、翌年以降も展示を続け、7月を中心に「平和七夕まつり」「反核平和コンサート」「平和美術展」「平和映画祭」など関連行事を広げた。空襲の犠牲者調査も本格化させ、2000年頃までに約400人分の名簿をまとめた。同会は後に解散したが、一連の行事は89年に開館した「平和資料館・草の家」に引き継がれた。

 私が「記録する会」の取材を始めたのは、第1回展の後だった。予想を上回る反響に気を良くしたメンバーの反省会に出向き、事務局長だったUさんと飲んで意気投合した。翌年から転勤前年の87年夏まで、地方版で関連行事も含め精力的に記事にした。
 80年代前半から社論が右傾化する中で自由に書けたのは、地元夕刊紙出身の支局長Nさんのおかげである。32年生まれの彼は「戦争はとにかく腹が減るんや」が口癖で、地方版にも地元作家による戦争回顧の長期連載を載せていた。大阪本社への転勤後は僧侶の資格を取り、退職後はホスピスで末期がん患者への傾聴ボランティアを続けた彼の優しさを、私は今も尊敬している。

 90年代後半、高知で支局デスクなどを務めた時期に「戦争展」の記憶は乏しい。時代の変化を痛感したのは4年前。定年を過ぎた嘱託記者として戻り、久しぶりに会場を訪れた。居合わせた高齢の女性の戦争体験も紹介した記事は大きく削られ、扱いは地味だった。過去を調べると、地方版に載っていない年がいくつもあった。
 翌17年は、危うくボツになりかけた。陸軍兵士だった村瀬守保さん(故人)が中国戦線で撮影した写真数十枚が展示の中心となり、その中にある南京虐殺現場の写真に虐殺否定派の大学教授から「捏造」との批判が出ていたからだ。

(続く)

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