2020/08/31
「安倍政治の終焉」とメディアの「覚悟」
仲築間卓蔵
仲築間卓蔵

 8月28日。安倍首相が辞意表明した。持病の潰瘍性大腸炎が悪化したのが理由だ。気の毒だし、治療に専念してほしいが、だからといって安倍首相のやってきたことを見過ごすわけにはいかない。ざっと振り返ってみる。
 2012年末に発足した第二次政権の目玉は「アベノミクス」。成功すればトリクルダウン(大企業の儲けが滴り落ちる)があるといわれたが、滴り落ちたか!。
翌年早々、メディア各社の代表との会食作戦がはじまった。情けない話だが、メディアは簡単にとりこまれていくことになる。2013年7月の参院選で自民圧勝、衆参ねじれ現象解消でやりたい放題がはじまる。12月、秘密保護法が強行採決された。
 2014年、消費税率8%に。7月、集団的自衛権行使容認を閣議決定。2015年、自民総裁選で無投票再選。ここからあくどい政治の私物化がはじまったといっていい。2017年2月、トランプと初会談。5月、「2020年に改憲目指す」と表明。6月、衆院選で自民圧勝。政治の私物化ますますひどくなる。2018年9月、自民総裁選で石破を破って連続3選。
 2019年5月、新天皇即位。7月参院選、改憲勢力3分の2割れ、消費税率10%に引き上げられた。2020年3月、東京五輪・パラリンピックの1年延期が決定した。来年実施できるのか・・中止を決定して国民のいのちと生活を守ることに徹すればいい。4月、新型コロナウイルス感染拡大で緊急事態宣言。5月,賭け麻雀問題で黒川東京高検検事長が辞職。8月終戦記念日、弔辞の中に「積極的平和主義」という言葉が入ってきた。「積極的平和主義」とは「軍事力強化」と同義語だ。
 この他に、モリカケ問題は残ったままである。カジノ収賄事件、1億5千万円もの選挙資金問題の河井夫妻事件などがある。いったいアベ政治の7年8ヵ月は何だったのか。隠ぺい、改ざん、汚職、買収の7年8ヵ月ではなかったか。安倍政治の一丁目一番地は沢山あるが、「アベノミクス」は失敗した。北方領土、拉致問題は1ミリも動いていない。「口先だけの政権だった」という評価を残しての退陣だったということになる。
 この稿が出るころ、自民党の総裁選はどうなっているのだろうか。誰がなったとしても1年の任期。来年11月までには必ず「総選挙」となる。いま国民が求めているのは「安倍の辞任」ではなく、「安倍政治の終焉」なのだ。望まれるのは「歴史的な政権交代」。総選挙に向けて今、野党共闘の政策づくりが進んでいると聞く。メディアの覚悟も、正念場中の正念場中の正念場です。
 
2020/08/27
「積極的平和」「敵基地攻撃能力」
 天皇は「過去を顧み、深い反省」、
 首相は「歴史」抜き「積極的平和」
    「戦争」で「平和」を造れるのか!                丸山 重威   


  ▼「8.15」の天皇と首相

 戦後75年の8月15日、「日本敗戦の日」、コロナ禍で参加者は、例年の1割弱と減らされたが、日本武道館では、全国戦没者追悼式が行われた。徳仁天皇、雅子皇后夫妻は、2度目の「お言葉」で「私たちはいま、新型コロナ感染症の感染拡大により新たな苦難に直面」していると指摘し、「私たち皆が手を携えて、この困難な状況を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います」と述べ、コロナ禍の国民を激励した。そして、「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と、過去の戦争の「反省」を口にした。

 ところが、「式辞」を述べた安倍首相は、これまで述べていた「歴史と謙虚に向き合い」(2016~2019年)や「歴史の教訓を深く胸に刻み」(2019年)といった言葉は消え、「戦争の惨禍を、二度と繰り返さない。この決然たる誓いをこれからも貫いてまいります」としながら、「我が国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携えながら、世界が直面しているさまざまな課題の解決に、これまで以上に役割を果たす決意です」と述べたあと、安倍流の「平和主義」を公然と主張した。

 イージス・アショアの配備断念を機会に、かつての鳩山一郎首相の見解をもとに、「敵基地攻撃論」を打ち出したのに続く「積極的平和主義」の主張。結びついた2つの主張はまさに、憲法に基づき、築きあげられてきた「平和構築」の議論を根本から覆すものだ。

▼積極的平和主義のウソ            

 安倍首相は2013年9月25日、米ハドソン研究所で「ハーマン・カーン賞」受賞記念の演説で「日本という国は、米国が主たる役割を務める地域的、そしてグローバルな安全保障の枠組みにおいて、鎖の強さを決定づけてしまう弱い環であってはならない」「日本は、地域の、そして世界の平和と安定に、いままでにも増してより積極的に、貢献していく国になります」「私は、私の愛する国を積極的平和主義の国にしようと、決意しています」と発言、続いて国連総会でも、「国際平和維持活動(PKO)をはじめ国連の集団安全保障措置によりいっそう積極的な参加ができるよう図っていく」と述べ、さすがに大きな問題になった。

 「積極的平和主義」とは「Proactive Contribution to Peace」。つまり「平和への積極的貢献」という米国流の平和論で、「平和を造るためには軍事力行使も辞さない」という主張だ。「Proactive」という言葉は、辞書によれば、「人、ポリシー、またはアクションの発生後に対応するのではなく、発生させることによって状況を作成または制御すること」。つまり、平和のために「先制的に」行動することを意味している。
 米国はイラクでも、アフガニスタンでも「自衛のための戦争」だ、と主張していることはご存じの通り。まさに Proactive に、「平和のための戦争をしている…」というのだ。

 これは「平和学」で言われる「積極的平和」(Positive Peace)とは明確に違っており、平和学のヨハン・ガルトゥング博士は、「積極的平和」とは、貧困、抑圧、差別などの「構造的暴力」がない状態のことをいい、決して「テロとの戦い」に勝利して、脅威を取り除くようなことではない、と述べている。
 「戦争法」が問題になっていた2015年、来日した博士は、「参院で審議中の安全保障関連法案は、平和の逆をいくものです。成立すれば、日本は米国と一致協力して世界中で武力を行使していくことになるでしょう。そうなれば、必ず報復を招きます。日本の安全を高めるどころか、安全が脅かされるようになります」と述べていた。

▼指摘できない「敵ってどこだ?」

 「敵基地攻撃論」もこの先制攻撃につながる概念だ。
 安倍首相は、イージス・アショアの断念の見返りに、自民党・国防族に「提言」を作らせ、「新しい方向性を打ち出す」と安保政策の大転換を計画中だ。
 この議論も、古くて新しい。もとは、1956年の鳩山一郎首相の見解がベースになっている。「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられない」「他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います」(1956年2月29日、衆院内閣委員会)。

 これを主張する人たちは、「攻撃されたら反撃する」から「例えばミサイルに燃料が注入されボタンを押すだけになったら」になり、「『東京を灰じんに帰す』と宣言し、ミサイルを屹立(きつりつ)させた時点で敵基地攻撃が可能」(2003年石破茂防衛庁長官)ということらしい。

 「他国からの攻撃が切迫し、それを防ぐ他の有効な手段がない場合、敵地を攻撃する行為は国際法上、違法な先制攻撃でなく正当な自衛権の行使」というこれまた米国流の自衛権論は、「攻撃を受けたときに初めて防衛力を行使する」という憲法に基づく「専守防衛」の安全保障政策とは真っ向から対立するが、早い話、米国のイラク攻撃や、アフガニスタン攻撃も米国では「自衛権行使」だから恐れ入る。米国はこの手の攻撃を「人道的介入」などという言葉でごまかしてきた。

 さらに、政府や自民党が、今回「相手領域内への攻撃」と言い「敵基地」と言わなかったのは、日本の周辺、どこにも「敵」はいないはずだし、「敵」だと認定すれば、少なくとも外交は、それでおしまいだからだ。
 もう一つ指摘しよう。現代の戦争は、「先制攻撃」と言っても、「防御戦争」といっても、どちらが先に、誰が始めたかわからないのが常で、謀略は戦争につきものだ、と言うことだ。
 15年戦争のスタートになった、1931年の柳条湖事件は日本・関東軍の自作自演だったし、1964年8月、米軍の舟艇が攻撃されたというトンキン湾事件はペンタゴン・ペーパーで、米軍が仕組んだものだったことがわかった。2003年のイラク戦争の理由とされたイラクの大量破壊兵器製造も、にせ情報だった。つまり、常に強国が弱小国を攻撃する口実に使われるのが、この「自衛論」なのだ。

 ▼新聞に反省はないのか

 このように、問題がある新防衛論だが、例によって、新聞論調は分かれている。
 朝日、毎日、東京が「専守防衛の原則から逸脱する」などと反対しているのに対し、産経は「国を守るための有効な手段」として、政府に保有の決断を迫り、読売も「日本に被害が及びそうな場合、ミサイル拠点を攻撃する選択肢を持つことは妥当だ」とこれを支持する。ともに、言うのは、相も変わらず、北朝鮮と中国の「脅威」。
 産経は「国民の生命と日本の平和を守る防衛力について、最大与党が真剣かつ冷静に検討した結果である」と評価、「北朝鮮や中国は、日米のミサイル防衛網を突破しようと自国のミサイルの能力向上や増強に余念がない。ミサイルには核弾頭が搭載される恐れもある」とし、読売は「武力攻撃に着手した国に対する自衛の措置は、国際的にも認められている」「北朝鮮は、変則的な軌道の弾道ミサイルを繰り返し発射した。中国は、音速の5倍以上で飛行する高性能兵器を開発している。現在の防衛体制で、こうした最新兵器に対処するのは難しい」という。相も変わらず、武力には武力で、と言う旧態依然たる発想から抜け出せない論調だ。

 でも、産経も、読売も、これでよかったのか?
 かつて戦争の惨禍を押しとどめることができなかった日本の新聞は、その痛恨の反省に基づいて日本国憲法を支持し、戦争のない世界を目指したはずだった。「8.15」はその反省の日だったはずだ。そんなに2つの国が問題なら、なぜそれらの国と話し合って、「不可侵」でも「不戦」でも、「相互安全保障」でも、約束ができないのか? 産経も、読売もそんな提案ができないのはなぜだろうか? 

 河野太郎防衛相は記者会見で「周辺国の理解を得るには何が重要か」と聞かれて、「なんで了解が必要なんですか」と聞き返した。東京新聞8月27日社説は「周辺国の理解欠かせぬ」と問題提起している。「了解があればいいのか?」と聞きたいところだが、それ以上に危険で、問題があるテーマなのだ。

                                (了)             
2020/08/27
42年続く「戦争展」(上)      ── 高知から ──

15-s-1.jpg

▲高知市で開かれた「戦争展」(2020年7月5日、高知市立自由民権記念館)=筆者撮影
石塚直人(元読売新聞記者)

 8月はメディアにとって鎮魂の季節だ。原爆忌や終戦記念日などの行事を報じるとともに、独自の切り口から戦争の惨禍を振り返り、平和と人権が守られる社会を展望する特集を作る。戦後75年の今年も力作が多かった。そこには記者や制作スタッフの祈りがこもっている。
 15日のNHKスペシャル「忘れられた戦後補償」は、国が戦後一貫して民間人への補償を拒んできた経過を紹介した。空襲で重い障害を負いつつ地方から陳情に訪れた高齢者を、厚労省の役人は冷たくあしらう。「そんなに金が欲しいのか」など、匿名の無慈悲な手紙が相次いだ場面には、今のコロナ禍を連想して気が重くなった。
 軍人・軍属への手厚い補償は、彼らを票田とする政治家の要求による。一方で官僚たちは、民間人へのそれを「財源がない」と切り捨て、被爆者やシベリア抑留者ら一部に補償ならぬ救済措置を施すにとどめた。同じ敗戦国のドイツやイタリアが軍民を問わず、平等に補償しているのと比べ、弱者への差別と断じるしかない。

 私は昨年末までの40年を読売新聞(大阪本社)の記者として過ごした。うち高知では計3回、通算16年半を勤め、退職後もここで暮らしている。
 新人として赴任した79年7月に高知市で始まり、今年42回目を迎えたのが「戦争と平和を考える資料展」。戦後30年を迎える頃から全国各地で「空襲を記録する会」が作られたのに倣い、45年7月4日未明の高知空襲による惨禍を明らかにする作業が有志の手で取り組まれた。市民から寄せられた約600点の資料の展示は、5日間で約9000人を集めた。
 主催した「高知空襲と戦災を記録する会」は、翌年以降も展示を続け、7月を中心に「平和七夕まつり」「反核平和コンサート」「平和美術展」「平和映画祭」など関連行事を広げた。空襲の犠牲者調査も本格化させ、2000年頃までに約400人分の名簿をまとめた。同会は後に解散したが、一連の行事は89年に開館した「平和資料館・草の家」に引き継がれた。

 私が「記録する会」の取材を始めたのは、第1回展の後だった。予想を上回る反響に気を良くしたメンバーの反省会に出向き、事務局長だったUさんと飲んで意気投合した。翌年から転勤前年の87年夏まで、地方版で関連行事も含め精力的に記事にした。
 80年代前半から社論が右傾化する中で自由に書けたのは、地元夕刊紙出身の支局長Nさんのおかげである。32年生まれの彼は「戦争はとにかく腹が減るんや」が口癖で、地方版にも地元作家による戦争回顧の長期連載を載せていた。大阪本社への転勤後は僧侶の資格を取り、退職後はホスピスで末期がん患者への傾聴ボランティアを続けた彼の優しさを、私は今も尊敬している。

 90年代後半、高知で支局デスクなどを務めた時期に「戦争展」の記憶は乏しい。時代の変化を痛感したのは4年前。定年を過ぎた嘱託記者として戻り、久しぶりに会場を訪れた。居合わせた高齢の女性の戦争体験も紹介した記事は大きく削られ、扱いは地味だった。過去を調べると、地方版に載っていない年がいくつもあった。
 翌17年は、危うくボツになりかけた。陸軍兵士だった村瀬守保さん(故人)が中国戦線で撮影した写真数十枚が展示の中心となり、その中にある南京虐殺現場の写真に虐殺否定派の大学教授から「捏造」との批判が出ていたからだ。

(続く)
2020/08/27
42年続く「戦争展」(下)      ──高知から──

16-s-1.jpg

▲「戦争展」に展示された焼夷弾の破片(2020年6月30日)=筆者撮影
石塚直人(元読売新聞記者)

 デスクに原稿を出した翌11日夜、支局長に呼ばれ「批判に反論できる材料がないと掲載は難しいです」。反証を探し、12日朝に提出するとともに「一連の写真は戦時下で人間がどうなるかを考えるための絶好の資料。不当な言いがかりに屈して読者の知る権利を奪うのはおかしい」と1000字の長文メールを添えて説得を試みた。
 この日午後から17日まで、私は非常勤で教えていた岡山の大学に出向くなどで高知を留守にした。14日に支局長に電話すると「もう少し検討させて下さい」。閉幕を翌日に控えた16日、原文を少し縮めた35行と写真が掲載された。
 無数の目撃者がいる旧日本軍の蛮行を「なかったこと」にしたい人たちが、歴史を無理やりゆがめるようになって久しい。似たやり取りは、他の新聞社や放送局でもあったはず。断じて許す訳にはいかないが、昔に比べ、管理職が外部とのトラブルを極端に恐れるのも確かだ。支局長が最後に折れてくれた背景には、頑固な老記者へのいたわりがあったのかもしれない。

 18、19年も私の記事は掲載された。ただ、退職後の今年は勝手が違った。主催者側、つまり裏方に回ったからだ。開幕前日には展示物の設営をし、期間中は受付業務を分担し、最終日は撤収作業に加わった。支局からは、初日に後輩記者が取材に訪れた。
 「<75年前の夏>を学び 未来を考えよう」と題した展示は、広島市立基町高校の生徒が被爆者の証言を聞きながら描いた「原爆の絵」約40点、高知空襲にまつわる写真や遺品、核兵器禁止条約の概要と批准国を紹介する世界地図、投獄され拷問を受けても反戦運動を続けた県出身者22人の紹介など。高知空襲の語り部によるビデオコーナーも設けられた。
 驚いたのは、毎年会場の入り口近くに置かれる焼夷弾の破片(2個)の重さだった。ふだんは「草の家」の玄関先にあり、展示のたびに軽トラックで運び込む。荷台に上げるのも下ろすのも男4人がかりで、ひとりではとても動かせない。
 爆発前の焼夷弾はこれよりずっと重く、それを何百も搭載したB29の巨大さにも初めて思い至った。調べると全長30メートル、全幅43メートル。これまで何となく、ゼロ戦やグラマンヘルキャットなど戦闘機クラス(全長10メートル前後)を想像していた自分の無知と、丸腰の市民を焼き殺す空襲の惨たらしさを改めて胸に刻んだ。
 受付当番の合間に、来場した高齢者や親子連れと言葉を交わしたのはうれしい体験だった。コロナ禍と連日の悪天候の中、「原爆の絵」や核兵器禁止条約のパネルをじっと見入り、感想を話し合う人が多かった。
 日本の片隅で静かに紡がれてきた42回。私が最初に出会ったUさんも、それを継いだ「草の家」の創立者Nさんも亡くなった。でも、彼らに続くメンバーの努力があってこそ、市民の「平和を愛する心」が育っていくのだろう。

 「戦争展」に触れたついでに、高知新聞社刊「秋(とき)のしずく 敗戦70年といま」(16年、1350円プラス税)を紹介したい。満州移民、シベリア抑留、高知空襲など、苛酷な体験をした人たちを記者が取材、14年2月から15年12月まで計74回にわたって紙面に連載した内容を本にした。シリーズは新聞労連ジャーナリズム大賞の優秀賞を受賞した。
 土佐弁の語りを生かした記述にはわかりにくさもあるが、時には20時間以上に及んだ取材は濃密で、説得力がある。デスクは、北海道新聞記者時代に道警の裏金問題の取材をリードした高田昌幸さん(現東京都市大学教授)が担当した。
2020/08/21
メディアの「目くらまし」に注意
仲築間卓蔵
仲築間卓蔵

 8月は6日、9日、15日の他に、もう一つの9日がある。国旗(日の丸)・国歌(君が代)法案が採決された日である。それまで「日の丸」は国旗ではなかった。「日の丸」の由来を調べてみた。
1673年(寛文3年)江戸幕府は御城米廻船に「日の丸」の幟掲揚を指示
1854年(安政元年)開国に踏み切った幕府は「日の丸」を日本惣船印に
1931年(昭和6年)帝国議会、「日の丸」国旗法案上程されたが審議未了で廃案
1935年(昭和10年) 紀元2600年記念行事。
 ぼくは1932年生まれ。当時3~4歳だったが「日の丸」の小旗を振らされた記憶がある。出征するとき父は家族が署名した「日の丸」の旗を抱いていった。毎月8日の大詔奉戴日(たいしょうほうたい日。12月8日にちなんだ日)には必ず「日の丸」を持たされた。ぼくにとっての「日の丸」は、即「戦争」である。若い人たちの「日の丸」観とはここが違う。
1945年(昭和20年)GHQ、「日の丸」掲揚はその都度許可。
1949年(昭和24年)GHQ、その制限廃止。
1999年(平成11年)6月11日小渕内閣、国旗(日の丸)・国歌(君が代)法案閣議決定
7月22日衆院可決。賛成403 反対86
8月 9日参院可決 賛成166 反対71
8月13日公布、即日施行


忘れもしない「サッチー・ミッチー騒動」
 1999年といえば、ぼくがワイドショーのプロデューサー業から身を引いた翌年である。後輩の諸君に「日の丸」問題をとり上げては・・・と声掛けしてみたが無反応。理由は「右翼が怖い」である。たしかに「日の丸」といえば右翼といわれた時代がある。右翼のみなさんは、日常的に「日の丸」を掲げ「軍歌」を轟かせながら街を駆け回っていた。気に食わない番組に対しては当該のテレビ局周辺でがなりまくった。NHKとて同じであった。国会周辺でもそうだった。が、いまその右翼のみなさんの姿が見えない。モリカケ、サクラ問題からコロナ禍にいたる何から何までに「アベ政治NO!」の声が上がってるのに、右翼のみなさんの姿が見えないのは、なぜ?。
 話は横道にそれてしまったが、国旗・国歌法案が上程されていたときワイドショーは何を伝えたか・・。野村監督夫人の沙知代さんと女剣劇の浅香光代さんの(何が原因だったか)口喧嘩からはまった騒ぎを延々と垂れ流しつづけた。世に「サッチー・ミッチー騒動」といわれ、やればやるだけ視聴率がいいというので、その報道は数か月続いた。その陰であっという間に「国旗・国歌法案」は通過してしまった。結果的にワイドショーは「目くらまし」の役割を果たした。


ついでに書いておきましょう
 2003年。地球の果てまで自衛隊を派遣できるという「有事三法案」が国会に提案されていた時に起きたのが「タマちゃん騒動」(多摩川に出没した一頭のアザラシを追いかける騒ぎ)。視聴率がとれるというので報道番組までが中継車を出すという騒ぎになった。
 その騒ぎのなかで有事法が強行採決されたのが5月15日。なぜかタマちゃんがいなくなった。「あれは陰謀ではないか」と電話をかけてきた人がいた。
 2016年。甘利という大臣の金銭疑惑問題。検察の取り調べがあるかもしれないという山場の時。元プロ野球選手の清原氏が覚せい剤取締法違反で逮捕された。彼は1~2年前から目をつけられていて、いつ逮捕されてもおかしくない状況。「いつ逮捕するの?今でしょ」。その陰で甘利大臣は入院。疑惑は?解明されないままだ。

犠牲のシステム
 高橋哲哉・東京大学教授の『犠牲のシステム福島・沖縄』(集英社新書)が頭にこびりついている。
 日本軍国主義―不敗神話―(報道は)大本営発表―犠牲になるのは 国民。
 原発主義 ――安全神話―(報道は)発表報道――犠牲になるのは 国民。
 いまは ―― 忖度(そんたく)報道か。

作家の辺見庸は「言葉を奪われているのはどちらか、戦時下の記者なのか、今なのか。
今、報道規制はある それは内なる(自ら検閲する)規制 だ」
と語っていた。

今、踏ん張り時だ。「正念場」だ。

管理  

- Topics Board -